天正16年(1588年)、
大関安碩(高増)と、長男晴増、大田原増清(三兄弟末弟、綱清の跡継ぎ)は、
豊臣秀吉と謁見すべく聚楽第を訪れていた。
機を見るに敏な大関一党は、九州を平定するなど日の出の勢いの秀吉に取り入ることは、
間違いなく利になると判断したのである。
秀吉は一早く訪れた大関一党を歓迎し、特に大田原増清には「出雲守」を与え、
羽織を与えられるなど、見事に取り入ることに成功した。
ところでこの時の大関一党の名目は「那須家家臣」では無かった。
それぞれ独立した地方領主であると自身の立場を説明したのである。
そして2年後の天正18年 (1590年)、ついに秀吉による北条征伐が開始される。
しかしながら那須家当主・那須資晴は、ここに至ってもまだ秀吉への謁見を渋っていた。
那須家は北条家に対して、それなりの恩義を持っていたのである。
大関一党らが引っ張る親秀吉派には資晴以外の殆どが付いた。
もはや北条家に勝ち目など無いことは明らかである。
同年4月27日、ついに福原資孝、伊王野資信、蘆野盛泰、千本義政、大関親子らが、
秀吉の元に参陣した。
だがここで大関親子以外の諸将は秀吉の怒りを買っている。
あまりにも決意表明が遅すぎた。
福原資孝、
(兄者に増清め・・・抜け駆けしおったな。
まさかもう秀吉に謁見を済ませていようとは・・・抜かったわ。)
大田原三兄弟の家の内、福原家だけが大名になれなかった理由はここににあった。
一応、所領は認められたものの福原家2600石、千本家2300石、蘆野家1100石、
伊王野家に至っては735石にまで所領を削られてしまう。
一方で大関家は13000石、大田原家は7900石にまで加増されるなど優遇措置を受けている。
さて、那須資晴はというと家臣たちが勝手に謁見を済ませる中で、
まだ秀吉への参陣を迷っていた。
秀吉への参陣に訪れたのはなんと北条家が降伏した後で有った。
これはあまりにも遅すぎて那須家は、
8万石の所領を没収されてしまうのである。
こうして大関家は小大名として独立を果たすのである。
後に哀れに思ったのか大田原晴清が、
秀吉に那須資景(資晴長男)を秀吉に謁見させ、
罪状を謝すると秀吉も5000石での那須家再興を許可した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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