下野国那須家には、党七騎(那須七党)と称する旗本が有った。
いわゆる大関、大田原、芦野、福原、千本、伊王野、岡本である。
中でも大関右衛門佐高増は智謀に優れ、七党の中でも抜きん出て、
那須家の柱石とも成っていた。
しかし先年の小田倉原の合戦に先陣を切って手柄を立てて以来、
党の他の輩からの高増に対する妬みが増し、
一方の福原弾正左衛門資経(那須資郡・那須資胤の弟)の功のみを吹聴するので、
高増はそれが面白くなく、病と称して出仕しなくなった。
那須資胤はこれを怒り、また出る杭は打つに限ると思ったのか、
大関の家人・松本美作守を呼び、
密かに高増を殺すように命じた。
松本はやむなく了承して黒羽城へ戻ったが、その一部始終を高増へ語り、
御屋形様の命であり、これを断っては即座に誅せられると思い引き受けた、
と言った。
大関高増はこれを聞くと、
「罪なくして亡ぼされるのは無念である。そもそも殺す理由が不確かででたらめである。」
そう憤り、逆心を起こした。
彼はすぐに常州の佐竹義重に援軍を頼み、鳥山の那須資胤を攻撃することにした。
この時、佐竹と、那須資胤を殺し、その二男である三郎義宗を迎えて、
那須家を継がせる内約を取っていた。
以後、黒羽の城に立て籠もって三年間、すなわち永禄六年の三月下旬より永禄九年夏まで、
鳥山と何度も繰り返し戦った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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