薄葉原の戦い☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

抗争を繰り返してきた那須家と宇都宮家であったが、

天正三年(1575)、那須資晴と宇都宮広綱は、薄葉原で激突した。

両軍は川を挟んで対峙したが、那須家の若者たちは、

戦が始まるのを待ち切れず駆け出した。
 

これを見た大関高増は大いに怒り、
「戦場において軍法が重大であることは常識であり、皆も知っているはずだ。
抜け駆けは無駄であり、戦に負けるもとだ。不忠なことをするな。」
と固く制した為、那須勢は留まった。

対して宇都宮勢の先手は我慢できずに渡河を始めたところ、

那須方の野伏は矢衾を作り、散々に射かけた。
 

宇都宮勢に動揺が走ったところに、那須勢は川を渡り宇都宮陣営に切り込んだ為、

宇都宮勢は悉く逃げ出した。
 

しかし、逃げ惑う宇都宮勢にあって、壬生義雄だけは手勢三百余騎で備えを作っていた。
 

高増は、これを見つけると、
「壬生の動きがわからん。皆、油断するな。」
と留まるよう下知をした。
 

案の定、壬生は逃げずに那須勢に突撃し、

その隙に広綱は退却することができた。

壬生の奮戦は、那須・宇都宮両軍に影響を与えた。
壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、

那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。
資孝の太刀の前に出た敵こそ不運であり、

彼に次々と斬られ生きて帰る者は無かった。

この合戦の勝利によって、塩谷郡は那須家の勢力下となった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 那須七騎筆頭、大関高増

 

 

 

ごきげんよう!