抗争を繰り返してきた那須家と宇都宮家であったが、
天正三年(1575)、那須資晴と宇都宮広綱は、薄葉原で激突した。
両軍は川を挟んで対峙したが、那須家の若者たちは、
戦が始まるのを待ち切れず駆け出した。
これを見た大関高増は大いに怒り、
「戦場において軍法が重大であることは常識であり、皆も知っているはずだ。
抜け駆けは無駄であり、戦に負けるもとだ。不忠なことをするな。」
と固く制した為、那須勢は留まった。
対して宇都宮勢の先手は我慢できずに渡河を始めたところ、
那須方の野伏は矢衾を作り、散々に射かけた。
宇都宮勢に動揺が走ったところに、那須勢は川を渡り宇都宮陣営に切り込んだ為、
宇都宮勢は悉く逃げ出した。
しかし、逃げ惑う宇都宮勢にあって、壬生義雄だけは手勢三百余騎で備えを作っていた。
高増は、これを見つけると、
「壬生の動きがわからん。皆、油断するな。」
と留まるよう下知をした。
案の定、壬生は逃げずに那須勢に突撃し、
その隙に広綱は退却することができた。
壬生の奮戦は、那須・宇都宮両軍に影響を与えた。
壬生の姿を見て引き返してきた岡本右京亮は、ここが最期と決め、
那須勢を相手に一歩も引かず戦った。
岡本の様子に触発された高増の弟、福原資孝はこれに負けまいと前進した。
資孝の太刀の前に出た敵こそ不運であり、
彼に次々と斬られ生きて帰る者は無かった。
この合戦の勝利によって、塩谷郡は那須家の勢力下となった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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