順調に信濃進攻を進めていた信玄は、天文十六年の上田原の戦いで大敗。
大損害の上、多くの重臣を失ない、さらに占領下の反武田勢力も息を吹き返し、
一転窮地に陥った。
武田家と敵対していた信濃守護・小笠原長時も、これを好機として諏訪領に乱入した。
おりしも六年に一度の諏訪大社・御柱大祭の年で、
この乱入の為にお祭りの参加者が少なく、
御柱祭を大々的に後援していた、武田家は大いに面目を失ったとある。
これに気を良くした長時は、6月に行われるお祭りの後半にも乱入したが、
ブチギレたのは、2度までもお祭りの邪魔をされた氏子たちであった。
地下人達が歯向かい、侍17人、足軽100人余り討取っられる。
長時自身も2ヶ所も傷を負って惨めに逃げ帰った。
自分たちでやって天罰も何もないと思うが、六年に一度の神事に介入したばかりに、
諏訪大社の最重要神事記録に書かれ、後世までみっともない話が残った運の悪い話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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