小笠原長時は、
天文17年(1548)、塩尻峠の戦いで武田信玄に大敗し、
天文20年(1550)には村上義清の元に逃げ込み、旧領回復運動を繰り広げつつ、
その後、越後、さらには同族である京の三好長慶の元にまで亡命し、
老年には会津・蘆名盛氏の元に寄寓していた。
さて、そんな長時の三男・貞慶は、
なかなかの武将であり、織田信長に仕え活躍。
天正10年(1582)3月に武田が滅びると、信州に領地をあてがわれた。
一部とはいえ小笠原氏が、ついに信濃に戻ってきたのだ。
が、武田滅亡の3ヶ月後、本能寺の変が起こるのである。
信濃も、大きな混乱に陥った。
小笠原貞慶は、これを好機と見た。
徳川家康の後援の元、今は木曾義昌が領する、
かつての信州小笠原家の所領、松本の奪還を狙ったのだ。
彼は家来の溝口美作一人だけを召し連れ、密かに塩尻に潜入。
地元の人々を煽動すると、
高井手、熊野井、青柳、瀬黒と言った村々が一斉に蜂起。
木曾義昌はこれにはたまらず、
ついに貞慶に松本を明け渡すことを約束した。
さてさて、会津の小笠原長時である。
彼は息子の貞慶より、旧領の復帰の報告と、早く長時を迎えたいとの連絡を受けた。
ついに信州小笠原家が復興したのだ。
長時は、大喜びで帰国の準備をしていた。
ところがその最中、長時の従者の一人が彼に遺恨を持ち、にわかに斬りかかった。
長時はこれにより、あれほど焦がれた故郷の地を踏むこと無く、
会津にてその生涯を閉じた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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