享禄四年(1531年)の冬、
小笠原大膳太夫長時(三十九歳)は、二木豊後(二木重高)を呼び、
「これ以上は武田晴信に対して城を保てぬゆえ、わしは越後に落ち延び、
上杉政虎を頼むことにした。
おぬしは、その間ここにとどまり、
武田晴信に属し、武田軍が我が領地を切り取る間、
四方の輩と連絡を取り、小笠原家再興の方策を考えよ。」
と言った。
二木は元来忠義の者であったため、これを了承し、
流浪の助けになればと黄金百枚を長時に授けた。
二木の先祖は、奥州多賀の黄金商人の橘次末春(金売り吉次)であり、
牛若丸を携えて京から奥州に下向し、ついには源義経の被官となり、
名を堀弥太郎景光と改めた者であった。
その子孫も金売りであり堀藤次と言っていたが、
諸国動乱のため上方から奥州に帰れず、信州に寓居し娘を二木氏に嫁がせた。
藤次は男子がなく病死したため、金銀などはすべて二木氏が譲り受け、
豊後の代まで富を受け継いでいたのであった。
こうして長時は、嫡子・又次郎長隆と、弟・孫次郎信定の両人を連れて越後に行き、
上杉を頼んだ。
しかし一両年のうちに三好長慶が洛中で猛威を振るった。
三好氏は分かれてからずいぶん経つとはいえ小笠原氏の支流であったため、
長時は謙信に暇乞いして、愛息の小曽丸を連れて長慶を頼んだ。
長慶は長時に河内高安郡の十七ヶ所を堪忍料として与え、芥川の城下に住まわせた。
しかし長慶没後、三好家が混乱したためここを去って、
奥州会津の星備中入道昧庵(蘆名氏の老臣)のところに寓居したが、家人に殺害された。
息子の小曽丸は後に喜三郎貞慶と称した。
甲州混乱の折に本国に帰還し、旧領を切り取って終に徳川家に仕えることとなった。
貞慶は従五位下右近大夫に叙任された。
貞慶の息子・小笠原秀政は、故岡崎三郎君(松平信康)の末の姫君を娶って、
御譜代大名に加わったが、大坂の陣で落命した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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