父・家親の急死により、山形は12歳の最上家信(後の義俊)が、
継ぐ事となったが、若年であったために、
重要な決定は、義光・家親の慣例に従う他に、幕府に許可を得る事が求められた。
国元を離れ江戸で育った家信は、重臣らと水が合わず、
また重臣らも、若年な上に文楽に興じる家信の政道と指揮力に、不安と不満を感じた。
氏家光氏、
「家宰の私が言うのもなんだが、…若殿は国を束ねるには…ちょっと、な…。」
楯岡光直、
「義康君、家親君、義親君は已にあらず。
…若の代わりに光茂(後の山野辺義忠)君ではどうであろう?」
鮭延秀綱、
「あぁ、光茂殿なら亡き大殿(義光)譲りの才覚もあるし、誠に主として申し分無いな!」
松根光広、
「あいや待たれよ!家信は幼いとは言え最上の大守、吾等が支えずしてなんとする。」
東根景佐、
「あまり大きな声で騒ぐな。若の耳に聞こえるぞ。」
家中は山野辺派と家信派に別れ、険悪な雰囲気となった。
やがて元和8(1622)年、反家信の山野辺派の横暴に憤りを感じた松根光広は、
鬱憤を抑え切れず、
老中の酒井忠世に、
「家親の頓死は楯岡光直の毒殺に違いない。」
と訴えた。
忠世は訴えに基づいて光直を取り調べたが証拠はなく、
光広は筑後の立花氏にお預けとなった。
騒ぎを重く見た幕府は、
旗本の島田利正(後の二代目南町奉行)と米津田政(後の初代北町奉行)を、
代官として山形に派遣。
幕府の調停に従わず、家内騒動が続く様なら問題を起こした責で、
一旦国替と減封を命じ、家信には新たに他国で6万石を与え、
成長の後様子を見て、
いずれは山形と出羽の本領を段階的に還す、という決定を下した。
しかし光茂と秀綱は、
「松根のような家臣を重用する家信を、仰ぐ事は出来ぬ。」
と反論し、
最上家で最大の光茂擁立派である秀綱は、
「もし願い叶わぬなら、吾等山野辺派は知行を返上し、頭を丸め高野山へ参る。」
と続けた。
島田と米津は江戸に急ぎ戻り、この様子を忠世に報告した。
幕府の態度は硬化し、元和8年(1622年)、山形藩最上家57万石は改易された。
山野辺光茂は備前岡山の池田忠雄の下に追放され、
楯岡光直は肥後熊本の細川家に預けられた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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