「徳川実紀」によれば、元和初頭九月。
最上義俊が大酒を呑み芸者を囲い舟遊びの挙げ句に、
大名という身分でありながら船頭と舵の取り合いで争論した、
という不名誉なことが記録されている。
ただし、同時期七月から九月にかけて、
江戸城普請に携わる家臣らを労う義俊の書状が存在することによって、
この時には義俊が山形に在国中だったことが明らかなので、
事件が事実であったかはともかく、
時期については誤りとしなければならない。
義俊は暗愚な主君とされがちであるが、
福島正則改易の江戸屋敷接取の立ち会いに、
若年ながら見事な統率を発揮したとして、徳川秀忠が刀を与えたという。
前後義俊は16程の齢。
当時の彼の力だけでは家臣の制御ができなかったであろうことは、
のちの経緯から推測することは可能である。
最上改易後は、子・義智を遺し御家再興を憂いつつ、27歳で死去している。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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