小田原開城☆ | げむおた街道をゆく

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天正十八年七月三日、小早川隆景は小田原城攻めの本陣である笠懸山を訪れ、

秀吉公に対し申し上げた
「北条家の分国の城々は尽く麾下に服し、残るは小田原の一城のみという状況に至りました。
であれば、東国の案内者とされている徳川家康公と内談されて、方針を策定されるべきです。」

これに殿下も尤もだと思い、家康公と密談された所、家康公は、
「調略のことはたいへん容易いでしょうが、私は北条氏直と縁類でありますから、

私が動けば、その事を突いてこの動きが妨害されることも有るでしょう。

先ずは上方衆の中から、この計を入れられ、

その上でこの家康も取り計らうべきだと考えます。」

この言葉に秀吉公も再び尤もだと思われ、黒田勘解由孝高は当時四十四歳であり、

家督を嫡子の長政に譲り隠居の身ではあったが、

殿下は彼の知勇才覚が世に優れているのを惜しみ、常に召し出して相談をしていた。

よって今度の小田原の役にも伴い武略の助けとしていたが、

故にこの事についても彼を呼んで相談した。

孝高は話を聞くと、家人井上周防守之房の弟である平兵衛を密かに、

北条氏直の異母弟である大田十郎氏房の陣に遣わし、和睦の事を申し入れた。

氏房はすぐに同意したが、氏政父子は、これを承諾せず、

そこで秀吉公はまた宇喜多宰相秀家に命じて、家老である花房助兵衛職秀に言い含め、
重ねて太田氏房の持ち口に矢文を射込み、
『氏政父子が和睦を受け入れるならば、伊豆相模の両国を所領し、

氏房には上野一国を与えるであろう。』
との旨を殿下の内意として伝えた。

 

しかし氏政父子はこれを聞くと、
「当家は関八州を管領する事年久しいというのに、今僅かに二州を与えられるとは、

外聞といい実義といい面目なき次第であり、このまま生害に及んだほうがましだ。」

そのように拒絶したが、太田氏房、北条氏照らが、
「そこを押して和平を請われるべきです。籠城の面々の一命も助けねばなりません。」
そう一同に諌めた所、氏政父子も、
「そういう事であれば、各々の分別して良きようにせよ。」
と申したため、漸く和睦に同意したとの、太田氏房の返書が届き、

宇喜多秀家、黒田孝高を通じて、秀吉公へこれを取り次いだ。

 

そして北条方に対し、

「家康公と内談するように。」

との書状が返された。

同月五日の晩方、北条氏直は松田尾張守憲秀を召し出し、

今回の逆心、不忠の義を述べて自身が太刀を抜いて誅殺した。

翌六日早天、氏直は馬廻りの組頭・山上郷右衛門、諏訪部宗右衛門を伴って、

騎馬にて家康公の陣営を訪れ和議のことを申し入れた。

 

家康公は対面すると、
「あなたは類縁ですから、私から口入れするのは難しい。

羽柴下総守(滝川)雄利の陣へ行き、
思う所を述べられるのが良いでしょう。」

と仰せになり、井伊兵部少輔直政を付けて彼の陣所に遣わした。

 

氏直は雄利に委細の旨を告げて直ぐに城中に帰った。

この時家康公よりの提案で、
殿下の家臣と北条家の家臣が直に談判すべきであるとして、

殿下よりの使いである、羽柴下総守、黒田勘解由に榊原式部大輔康政をを加えて、

小田原城内に入り、氏政父子、および家中の者達より神文を請け取り和睦の首尾が成り、

翌七日、奉行として脇坂中務少輔安治、片桐市正且元、毛利兵橘(重政)に、

家康公より榊原康政を添えられ検使に出され、小田原城の七口を開いて、
立て籠もる諸士、雑卒、男女を思い思いの場所へと退散させた。

 

秀吉公はこの奉行たちに、
必ず籠城の衆への狼藉が無いように、能く下知するよう命じた。

その前夜、北条氏直は小田原城の本丸に一族、重臣、侍大将以下を集め言った。
「今回、各々が長きにわたる籠城を果たしたこと、忠義の至りであり、

未来永劫忘れることは無い。
我ら父子も、従来より城を枕とする覚悟であったが、

今となっては大勢の士卒の命を失うこと見るに忍びず、

ここにおいて敵よりの扱いに応じ、名を捨て恥を省みず軍門に降る。
である以上、そなたたちはそれぞれの意思に従い、

明日よりこの城を離れ身命を全うしてもらいたい。
もし、この氏直が生き延び、時勢を得て再び家運を起こす時が有れば、

旧好を忘れず、お前たちを必ず呼び集めるだろう。」

そう、丁寧に申し渡すと、人々はみな鎧の袖を濡らし答える詞もなかった。

しかしながら城中の者達は今や溜池の中の鯉、轍の中の魚であり、

城中の者達は大水が出た時のように、
主人親類も打ち捨て我先にと落ちていく姿は、目も当てられぬ有様であった。

和平が整うと、北条氏直より黒田孝高へ礼として、

日光一文字の太刀、北条家の白貝と名付けられた陣法螺、

並びに頼朝公以来、鎌倉将軍家の治世の間の日記を送られた。

 

孝高はこれを受納し、後年、太刀と法螺貝は黒田家に留め、日記は家康公に進上した。

この書は今まで北条家にのみ秘伝して他家に披露された事は無く、

家康公はご覧になって、

「天下の権を執り海内の成敗を成すにおいては、
これによらねば徴すること出来ない。末代までの龜鑑である。」

と大変に喜ばれ、官庫に収納された。
現在、『東鑑(吾妻鑑)』と号され、重要な書籍と評価される実録が、この書である。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 関東支配の終焉、北条氏直

 

 

 

ごきげんよう!