1586年、徳川家康が織田信長の後継者として勢力を伸ばしていた豊臣秀吉に臣従し、
北条家も服属を迫られる状況となった。
家中では、当主の氏直ら恭順派と、家中に強い影響力を持つ父の氏政ら交戦派に分かれたが、
家康の、
「こちらの説得を聞き入れない場合は、同盟破棄も辞さない。」
という強い説得を受け、秀吉に使者が送られる事になった。
その後、北条家と豊臣配下の真田家との間に会った領土問題に、
秀吉が裁定を下し、北条家もこれを受け入れて、
氏政が上洛し臣従の意を示すことで話がまとまりかけた。
所がそこに、北条家家臣・猪俣邦憲が、
真田配下の名胡桃城を奪取するという事件が勃発した。
これに激怒した秀吉から、
「必ず氏直の首を刎ねてやる!」
と宣言されると、氏直は、
「北条家は何も知りません。
父の氏政は上洛させますが、そのまま抑留されるなどの噂もありますので、
かつて家康殿の上洛に際して豊臣家から人質を出した様なご配慮お願いします。」
といった弁明書を送り、家康にもとりなしを頼んだものの、
聞き入れられる事は無かったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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