安藤彦四郎は、こう語ったという。
「武士の身の上には“伊達”というものがあるが、心得ている者は少ない。
武士の伊達には、討死にまさるものはあるまい。」
大坂夏の陣の時、安藤帯刀(直次)の子・彦四郎重能は、
徳川秀忠の小姓の成瀬豊後守(正武)の組であった。
彦四郎は常々人に語り、
「およそ武士というものは、長生きして度々戦場に出て、
武功は多くとも死なずして世を送っては、格別に優れた勇士とは言い難い。
ただ、討死することこそ本望である。」
と、言った。
5月7日になって、彦四郎は、
「一番首と言わば彦四郎と思いなされ、一番に討死と言わば、それも彦四郎と思いなされ!」
と言い、撓いの指物を巻いて、井伊直孝の先陣へ行った。
そこで彼は庵原助右衛門(朝昌)に向かって、「いざ掛からん!」と言った。
しかし庵原は同意せず、
「敵の待ち受けている矢先へ、どうして掛かることができるだろうか!」
と、言った。
これに彦四郎は、
「待ち受けている矢先へ掛かってこそ勇士と言うべきである!」
と言うが、庵原は「いまだ早い!」と言って攻め掛からない。
すると彦四郎は、「さらば私が掛かってみせん!」と言った。
庵原は彦四郎を押し止めたが、
彼はまったく躊躇わずに敵の中へ駆け入って討死した。
さて、父・帯刀は馬上で采配を取って諸軍を命令していた。
そこへ従者が駆けて来て彦四郎討死の旨を告げ、
「屍をいかがいたしましょうか。」
と申し上げた。
これに帯刀は、
「犬に食わせよ。」
と言いながら、崩れた味方を立て直した。
その後、合戦が終わると、帯刀は大いに嘆いたということである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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