寛永15年2月(1638)島原の乱、
幕府軍の総攻撃により、原城に籠ったキリシタンたちも、
遂にその終焉を迎えようとしていた。
と、その時。
知恵伊豆こと、幕府軍の総指揮を取る松平信綱の嫡男、当時19歳の甲斐守輝綱は、
戦闘に参加するため、ただ一騎馬を走らせ城へと向かった。
これを知り信綱は激怒し、家臣の岩上角左衛門を呼んで、
「輝綱をすぐに止めてくるように!」
と命ずる。
岩上は直ぐ様馬に飛び乗り輝綱の後を追い、
遂に追いつくと彼の馬の前に立ちふさがり、
輝綱に向かって叫んだ。
「伊豆守様よりのお言葉を伝え申す!
『伊豆守は将軍家の御代官としてこの地に来たのであって、
諸軍と功を争ってはならないと、
家中の者たちにも固く命じていたところである!
ましてその長男がその様に抜け駆けし、
先陣を争うなどあり得べきことではない!
その行為をすぐに辞めるように!』
以上でござる!」
と、輝綱の馬の頭を取って本陣に帰らせようとした。
しかし輝綱19歳、血気盛んであり、
また、幼少より武芸に秀で、後に武士の手本とまで呼ばれた人物である。
岩上の言うことも聞かず再び戦場に向けて馬を走らせようとした。
ここで岩上角左衛門、兜を脱ぎ捨て輝綱の前に自分の首を差し出した!
そして、
「それがしの首を取らねば、戦に出ることかないませぬぞ!
さあ、速やかにこの首を刎ね、その後で思い通りになされませい!」
睨み合う輝綱と岩上角左衛門。
が、輝綱遂に馬の首を返し、一鞭当てて本陣へと戻っていった。
後々、松平輝綱は事あるごとに、
「私に戦の高名がないのは、全部岩上のせいだ!」
と恨み言を言ったという。
そしてその上で必ずこう付け加えた。
「でもな、主人を諌めるって言うのは、あのくらいじゃないと駄目なんだ。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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