本多出雲守忠朝は、平八郎忠勝の次男であり、父に従って参戦した関が原の戦いでは、
『島津の退き口』に遭遇して、
太刀が曲がって鞘に収まらなくなるほどに奮戦し、
「行く末、父親に劣るまい。」
と絶賛された。
しかし、大坂冬の陣において配置換えの申し出、
あるいは深酒による不覚によって、大御所・家康に、
「父に似ぬ子息よ!」
と叱責を受けた忠朝は、続く夏の陣において、
「討ち死にして汚名を返上せん。」
と覚悟を決めた。
天王寺口で毛利勝永隊が、
松平忠直・真田信吉・秋田実季ら相備えの隊を蹴散らし突き進む中、
忠朝は、
「本多出雲守、これにあり。返せ戻せや!」
と吠えながら八尺余の鉄棒を振り回し、勝永隊に突っ込んだ。
良き敵ぞ、とばかりに向かって来た騎馬武者二人を馬ごと鉄棒で叩き潰した忠朝は、
さらに五、六騎を打ち殺して、
その手槍を奪うと、鉄棒と槍でもって敵中を縦横無尽に暴れ狂った。
かなわぬと見た勝永隊の中から、
紺地の陣羽織をまとった武者が十匁筒(約18mm口径の大型銃。普通は二~六匁)を持ち込み、忠朝を狙撃した。
弾丸はあやたまず忠朝をブチ抜き、その胴から血煙が上った。
が、忠朝は少しもひるまず馬から飛び下りると太刀を抜き、
狙撃した武者の首を斬り飛ばすと再び馬に乗り、さらに鉄棒と太刀を振り回しまくった。
ようやく勝永隊が大坂城内に引き上げたころには、
忠朝は二十余の傷を負い、ついに地面に倒れ伏した。
一命を賭して汚名返上した忠朝を、賞賛せぬ者はなかったが、忠朝は、
「戒めるべきは酒である。今後、わが墓に詣でる者は必ず酒嫌いとなるべし。」
と、無念の言葉を吐いて息を引き取ったという。
その後、忠朝は酒封じの神様として崇められ、大坂一心寺にある彼の墓には、
今も禁酒を誓う酒飲みたちが訪れる。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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