相馬利胤が、江戸に在府していた頃の話である。
ある時、利胤は、仲の良い大名小名を10人余り、
また御旗本の小身の人々などを屋敷に招待した。
そこではみな打ち解け、よもやまに今昔のことなど物語していたが、
ここで本多出雲守(忠朝)殿が、このようなことを仰った。
「私は、自分自身が相馬殿に何事にもさほど劣るとは思っていないが、
羨ましいことが1つだけあります。
こればかりは及び難い事です。」
列座の人々は、雲州殿が何事をそれほど迄に羨んでいるのかと問うと、彼は、
「しからば、相馬殿は重臣・諸卒は勿論のこと、
百姓町人、下々陪従に至るまで、累代相伝の者達であり、
子々孫々、主従の親愛深い関係にあると承っております。
このような親睦は、金銀や知行で得ることはできません。
私のような者でも、明日何事があったとしても、
人数・騎兵を相馬殿に劣らず召し連れることが出来ます。
ですがそれは昨今に成って召抱えた者達であり、
すなわち私一人が、自身が恥をかかないために仕えさせた者達なのです。
ですから、主人と死生存亡を同じくして、身命を軽んじて働くものは、
千から千五百の中に、良くて7、80、多くて100人というところでしょう。
これでは思うままの合戦など、出来るはずが有りません。
一方で、相馬殿について伝え聞く所によれば、
幾度も分に過ぎた大敵と対戦して、一度も城下まで攻め込ませた事はない、とのこと。
こういった事は、主人の武勇だけでは成し得ないことです。
家中上下の心が一致していた故なのでしょう。
相馬殿の配下の千や千五百の人数は、下々までも、
存亡の気持ちを同じくして、意地を立てる人々なのでしょう。
尤もその中にも、臆する者達もいるのでしょうが、
それは二百や三百程度といった所でしょう。
とすれば、千のうち6,700、千五百のうち千は、心のままに従うということになります。
そういった軍勢であれば、敵が五千、一万であっても、安心して合戦に挑むことができます。
何故ならば、そのような大敵を迎える時は、
いくら知行を与えたからといっても働きを望めず、
しかし旧好の親しみほど、有り難いものはないからです。
関ヶ原の時も、配下には私に親しもうとする者と、親しもうとしない者が居ました。
そうだからと言って、彼らを分け隔てて扱ったわけでは有りませんが、
それでも少しは分けて扱いたい気持ちがありました。
ですが、親しまない者を私に親しませるために、
その分を過ぎて所領を与えるということも、私のような小身では、難しいことです。
ですので、所領や褒美を取らせるまでもなく、上下が懐かしみ、
親しみ睦み深く人を召し使う状態ほど、理想的な環境は無いと、
この頃、そう考えていたのです。」
この発言に座中の人々は大変感心した。
この時、御次の間に当時武功において大変高名な武士が居たが、彼は忠朝の話を聞いて、
「彼は志が別格な武将であり、只人ではない。
流石天下に隠れない御父上(本多忠勝)の業に続こうとする御仁である。
若き者共よ、今に見ておれ。
天下に事あらば、彼はきっと人の耳目を驚かせる働きをされるであろう。」
この本多忠朝殿は、関ヶ原でも高名され、家康公の御感に預かった人であり、
その後、大坂の陣において、涼しき討死をなさったと、世の美談に成ったことを考えれば、
捨てがたい挿話であるので、ここに記して置くのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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