天正14年(1586)、豊臣秀吉は徳川家康を上洛させるため、
実母・大政所を、家康に嫁いだ秀吉の妹朝日姫への見舞いという名目で、
三河岡崎へと送ったこと、これは有名である。
さて、大政所の滞在する屋敷の側に、薪が山のように積まれさらに次々と運ばれていることに、大政所の女房たちが気がついた。
「あれはなんでしょう?」
「一体何事でしょうかね?」
この段階では彼女たちにもあまり危機感はなかったようだが、気になるので端女に命じ、
薪を積んでいる下人の一人に接触させ酒など飲ませて心安くなり薪のことを聞き出させた。
すると、この下人言うには、
「いやいや、確かなことは私は何にも知りませんよ?
ですが話に聞いたところでは、関白様が都で我が国の殿様の命を奪われるか、
もしくは抑留するような事になれば、
今度京都より下られた、こちらのお屋敷にいらっしゃるお方を、
尽く焼き殺すための薪だとか言われて、本多様の下知であるからと、
毎日、山や林から切り出しているのです。
この本多様というのがまた、極めて気の短い方で、
『殿のお帰りが遅い! 遅すぎる!』
と待ちかね、今朝には火をつけよう、晩には焼きたてようと仰っているのを、
同じく留守居の井伊様や大久保様が、
『いやいやいや!
しばししばし、もうちょっと待ちましょう!』
と今迄はどうにかお止めになっているのだそうです。
それにしても痛わしいこと。
美しき京都の上臈衆が灰や土になってしまうなんて、なんと無残なことだろう。」
端女からこれを聞いて女房たちは、一瞬で恐慌を起こした!
あまりにも思いもよらぬことだったからである。
「ああ、何ということでしょう!
そういえばその本多という男、毎日ここに参って、恐ろしい声で、
『家康の命によりここに付けられました。御用の事があればなんでも仰ってください。』
などと言っていたが…、そうだ思い出した!
於義丸殿(のちの結城秀康)が人質として初めて参られたときに、
そのお共に仙千代丸という子どもがあったのを、関白殿下(秀吉)がご覧になって、
『あれは家康の家臣の、
三奉行とか言ううちの一人、鬼作左衛門という者の子じゃ。』
と仰せになっていた!
あの時は『鬼も子を生むのですね』『鬼の子とはどの様な者でしょう?』などと騒いで、
物ごしに覗いたりしたものでしたが…、あれがその親の鬼!
本多作左衛門!
なるほど鬼なら、このような事するでしょう!
そういえばあの男、ここに来る度に、
『家康が帰国の途についたという御沙汰は聞いておりませんでしょうか?』
と、一昨日も言った、今朝も、昨日も言った!
彼の待ち遠しさが限界を超えてしまったら!」
女房たちは直ぐに大政所の所へ行き、
「本多という男がこう言うことを企んでいます!
どうか関白殿下に頼んで、
家康殿を一刻も早く帰国させてください!」
と泣いて訴え出た。
大政所も大いに驚き、
「このような有様になっています。」
と緊急に秀吉に伝えさせ、
その甲斐あったか、程なく家康は帰国となり、大政所も帰京した。
さてさて、黙っていられないのが大政所の女房たちである。
彼女らは帰京するとすぐさま秀吉の前に出て涙を流しながら訴えた!
「あんなところにお母上様を下されるとは、なんと情けない事をされたのでしょう!
鬼本多という者が、かくかくしかじか、こんな事をしたのですよ!
いくらかつて争ったとは言え、今は御妹君たる朝日の姫様を参らせたまったのですから、
家康殿にとっても大政所様はお母上であると言うのに、
いかに鬼だからと言って自分の主君も知らぬ間に、
あんな事をして良いものではありません!
それに大政所様や私たちをあんな辛い目に合わせたのですから、
どうか、どうか徳川殿に仰って、あの本多と言う者にいかなりとも罪を与え、
大政所様のお恨みをお晴らし遊ばせてくださいませ!」
と、これを聞いた秀吉はいかにも愉快そうに笑い出し、
「家康という男は、良い家臣をたくさん持っているものだ。
わしも、そう言う家臣が欲しいものだな。」
とだけ言って、座を立って行ってしまったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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→ 鬼作左、本多重次
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