大御所・徳川秀忠が死去した後、諸大名の元にどこからともなく、
『将軍・家光を殺し、駿河殿(徳川忠長)を新将軍として立て参らせん。』
との内容の書状が廻ってきた。
この時、伊達政宗が最初に家光の元に参り、このような物が来たと申し上げた。
藤堂高虎がそれに続き、その他の大名も皆この事を告げたが、
加藤肥後守忠広父子からは報告がなかった。
また徳川忠長も、この事を知りながら早く報告しようとしなかったため、
彼らは罪を被ることとなった。
実は、この謀は土井利勝より出たものだという。利勝はこう考えた。
『今の世の中、普通の大名が謀反を企てても、誰もそれに組しようとはしないだろうが、
御一門の人々が決断すれば、あるいは組するもののあるだろう。』
そこで秀忠が逝去してから、罪を被った風を装い引き籠もって、
密かにこの廻文を巡らせたのだ。
加藤父子の罪が定まってから、利勝はいつの間にか再び出仕するようになった。
古き人は、私にこのように語った。
「利勝は深い謀のある人で、永き当家の忠臣であった。」
誠にその通りである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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