また、ここに不審なことがある。
犬を追っている子供まで皆が本多佐渡守(正信)が、
大久保相模守(忠隣)が中傷したと口にしている。
そんなことを世人が事を知らないので言っているのである。
佐渡は相模の親の七郎右衛門(忠世)に重恩を受けた者だから、
恩を忘れてどうしてこんなことができようか、それは人の作り事だ。
相模は子の主殿(石川忠総)を初め私どもの知らぬ、深い科がきっとあったのだろう。
絶対佐渡が中傷したなどということはないだろう。
今になってよくわかるけれども、町人、民百姓までがいうことだから、
本当にそのようなことがあったのかと、不審には思うけれど、そんなことはわからない。
佐渡は若いころはむごい者であると噂があったけれど、
年もとったことなので、きっとなおったのであろう。
佐渡守は七郎右衛門が朝に夕に面倒を見て、
女や子供を助け、塩や味噌、薪にいたるまで、面倒を見、
(家康に)敵対して他国へかけおちしたときも女子を助けてやった。
そのうえ、詫びを入れさせ、国に帰してからは、先ず隼鷹匠として抱えられ、
その後もあれこれととりなして、四十石の知行を与えられた。
その後も面倒を見て、除夜にはかならず嘉例として、
大晦の飯と元山飯を七郎右衛門尉のところで佐渡は食べたものだった。
関東へ(家康様が)お移りになった後でも、
江戸でもそのことを嘉例としたほどの佐渡であるから、どうしてその恩を忘れようか。
そのうえ、七郎右衛門が死ぬ時も。
佐渡を呼んで遺言にも、相模をよろしく頼むいって死んでいったが、
その時七郎右衛門に向かって、
「どうしてなおざりに扱えましょう。ご安心ください。」
としっかり申したのに、もしやその心にそむいて中傷したのだろうか。
昔は、「因果は皿の縁をめぐる」といったのに、
今は「めぐり着かずに、すぐに報いが飛んで向かう。」と言うことがある。
今どきどうであろうか、と思うけれども、
「人にさえずらせよ。」
ということもあるから、そういうものであろうか。
「善き因果は報いがあってもおぼえがない。
悪い因果が悪い報いを起こした場合は、わかりやすい。」
そういうものであろうか、佐渡は三年もすぎることなく顔に唐瘡ができて、
顔半分がくさり奥歯の見えるほどになって死んで、
子である上野守(正純)は改易になって出羽の国、由利にながされて、
その後秋田へ流されて佐竹殿にあずけられて、四方に柵を付け堀を掘られ、番を付けられた。
皆々口にするほどのことも確かにあることのようだ。
相模守の改易も、デウス退治の処置とあって、京都に使いに行き、その後改易にあった。
また、上野守の改易の時も、最上の仕置きをせよと命ぜられて、
使いに行ってその後改易になったのもおなじようなことだ。
さては中傷したので、因果の報いかと、また世間では犬を追っている子供まで言うようだ。
『史記』のことばに、
「蛇はとぐろを巻いても吉方に首を向け、鷺は太歳の方角に背を向けて巣をつくり、
燕は戌巳に巣を食い始め、鰈は河口に向かってはかたたがえをする。
鹿は玉女に向かって伏せる。」
とある。このように動物でも身の程に従う心があるそうだ。
顔だけは人でも心は畜生であったか。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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