大久保彦左衛門がある時、坂部三十郎と雑談をしている時、坂部は、
「座敷にて人を斬るのは二尺(約60センチ)以下の刀が良い。
それ以上だと座敷での働きは自由に成らない。」
と言うと、彦左衛門。
「昔、堀監物が家中の朋友に意趣を含んで、必ず討ち果たすと結審した時、
一尺五寸の脇差を八、九寸にまで磨上て首尾よく敵を討ち果たしたと、
後に監物が話していた。これは突き抜いて仕留める心得である。
見事に切り放そうとすれな多くは仕損ずる。
突く心得が有れば仕損じはない。足下が二尺以下というのも、
放し討ちの心得というものだろう。
放し討ちというの至極難しいものだ。
かつて池田勝入は、大事の敵を仕留めるのは組み留めておいて突き刺せば、
十中八九過ちはないと言われたものだ。
あの朝比奈弥太郎(後の水戸家老臣)は、
常に三尺(約90センチ)の大刀を差して歩いているが、
外見は良いがあれでは働きは出来まい。人を斬らぬ刀なら、精進刀というものだ。」
そう笑って話した。
ところが、後で坂部三十郎がこの事を朝比奈に話してしまい、朝比奈は激怒。
直に彦左衛門の家に押しかけ、
「足下は我が刀を精進刀と言われたそうだ。精進か生物か、一つ試してご覧あるべし!」
そう凄んで大刀の鯉口を広げ、返答次第で抜打ちにするとの剣幕であった。
しかし彦左衛門は少しも騒がず、
「成る程、足下の御刀は至極の切れ物と云う評判を聞いたゆえに、
そこで精進刀と言ったのである。」
「それはいかなる訳か!?」
「されば、精進というものは仏の命日にするものであるが、これは直ぐ落ちる。
精進落ちと言って魚を食う。
それで世俗で精進を落ちるというが、足下の刀に逢っては直ぐ落ちる。
首も胴も落ちる。
であるから精進刀といった訳だ。」
そう弁解すると、朝比奈も「それで良く解った。」と機嫌を直した。
すると彦左衛門さらに、
「足下が長篠合戦の時、甲州の中備の大将・内藤修理亮(昌豊)を討ち取って、
お手柄をなされたが、
あの刀は、只今のお差料であろうか?」
「いかにも。この刀は一刻も身を離さず、少し寸が伸びたが度々手柄を現した道具ゆえ、
磨上もせずこのように常に帯びている。」
そう言って抜いて見せたのは、備前国長一の刀、二尺八寸二分。
そこで彦左衛門は聞いた。
「足下は、あなたが討った内藤修理亮殿の命日には精進をしていると聞いたが、
そうであろうか?」
「いかにも。修理亮殿の命日には、精進をいたし念仏を唱える。」
彦左衛門、我が意を得たりとばかり、
「それではやはり精進刀ではないか!
精進をするほどの大将を斬った刀なればこそ、
足下の武名、天下に聞こえたのである。
精進刀と言われて何故に立腹するのか?」
そう口に任せて説立てられると、朝比奈も大いに喜んで帰っていったと、
「春村筆話」にある。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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