越前少将忠輝卿(松平忠輝)は、性質剛強にして武芸に達し、
猛勇の大将であるが思慮は浅く、
大坂夏の陣の時に大和口の総大将に命ぜられながら、
軍場へも御出にならず、その他条々の御不審を蒙り、飛騨国へ配流されたのだが、
その後に信濃諏訪の高島城の南の丸へ移された。
この城は三方に湖水、一方には大沼があった。
その中に縄手があって、左右には柳があったため、“柳縄手”という。
南の丸は本丸の下で、一方口であり湖水の端である。
館の外には塀があって塀の上には忍び返しを付け、
その外に二重の柵を付けて、柵の間は30間に1ヶ所ずつ番所を立て、
昼夜番士を置きなさり、半時毎に見回った。
その厳重なことは、いかなる故にかと不審に思う人もいたという。
忠輝卿へは1ヶ年に金3百両、米3百人扶持が将軍家から御合力された。
城主の因幡守(諏訪頼水)からは、薪千駄ずつが差し上げられた。
また参勤帰城や年頭の礼として1ヶ年に2度、
因幡守は南の丸に至って、御目通りがあった。
忠輝卿も1ヶ年に1度は、因幡守の館へ御出になったということである。
忠輝卿は御存生中、大坂の陣の御話しは1度もなさらなかったということである。
御預けの期間は50年余りになるから、御子も多く御出生したが、
1人も柵から外へ出さず、皆柵の内で相応に婚姻なさったということだ。
忠輝卿は、御背丈は高くもなかったが、眼は大きく御顔色は恐ろしく見え給うた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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