大坂遅参☆ | げむおた街道をゆく

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慶長20年(1615)3月、

江戸の幕府は再び、大坂攻めのため全国の大名に参集するよう命じた。
大坂夏の陣の勃発である。

奥州の相馬利胤もこれに応じ上方へと上ったが、

駿府において病にかかり、十死一生というべき重体に陥った。

無論病臥したまま軍勢を動かすことは出来ず、

それ故急遽、隠居していた、父・義胤が人数を率いて参陣することとなった。

4月、義胤は隠居所である標葉郡(現・、福島県浜通り)泉田の城を出立し、

まず江戸に向かった。
この時義胤が近習や外様の面々に言ったことには、

「太閤様以来、天下一統して安静の世になったため、

我が身も畳の上で朽ち果てることに成るのかと、
毎晩眠る時に口惜しく思っていたのだが、このように不意の出来事によって、

天下の武将の御為に命をかけて戦うことになった!
これは誠に老いの果報!

老後の大幸、一体何事がこれに優るだろうか!?

枯れ木に再び花が咲くというのはこの事である!」

そのように大いに喜ぶこと限りなかった。
義胤は次男の左近及胤、そして3男の越中久胤(この時16才)を伴い進軍した。

義胤はこの年66歳であったが、その頃下々は義胤の事を、
「謡の平家物語を聞かれるにも、常に修羅場を好んで聞かれて、

その時は御心も浮き立っているようであった。
この度は真の修羅場であるのだからその浮き立ちもひとしおであろう。」

と言い合っていた。
 

その時分は家中にも戦場を駆け巡った老巧の者達が存命していて、

義胤と共に従軍していた。

さて、相馬義胤の軍勢は5月9日、近江草津に到着した。

ところがここで衝撃的な情報が、

「大坂城は、一昨日の7日に落城しました。」

諸勢は既に帰陣を始めており、兵卒たちも口々にこのことを語っていた。

これには義胤を始め老若上下、進み勇んでいただけにガックリと力を落としたが、

「と、とにかく大坂までは参陣しよう!」

そう言って先へと進んだが、その道々で人々に、
「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、

横向きになって通ったのだという。

この様にどうしようもない状況であったため、醍醐の方に宿陣すると、

佐藤丹後を使いに立て、
佐竹義宣に、「どうすれば良いだろうか?」と尋ねた。

義宣からは、

「とにかく人数のうち過半は国元に返して、義胤殿はそのまま醍醐に居てください。
遅参についての詳細は私の方から幕府の老中に伝え、

両御所様(家康・秀忠)のお耳に達するよう取り図っていただきます。」

との返事であった。

そうしている内に利胤も病から回復し、上洛したのであるが、彼も醍醐で父と合流した。
こうした所で、大御所様並びに将軍家からも、

「特に気にしていない。(無御別心由)」

とのことで、
佐竹義宣が同道して、二条城において相馬家父子4人お目見えがかない、

その後親子ともども帰陣したとのことである。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 筆無精の義胤、相馬義胤

 

 

 

ごきげんよう!