伊達と相馬、累代の敵国☆ | げむおた街道をゆく

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慶長5年(1600)6月のこと。

上杉景勝征伐が行われようとしている時である。

これに伊達政宗は本国より会津を攻めるため、大坂より急ぎ帰国の途に付いた。
だが白川から白石に通る道は敵によって塞がれている。

常陸国を廻り、岩城相馬を経由して帰国を果たそうとした。

しかし、これに従う家臣たちは大変不安に思った。

伊達家と相馬家は累代の敵国である。

その相馬領をつつがなく通り抜けられるとは思えない。

しかも今、政宗が従えているのはわずかに50騎ばかりである。

常陸国を経て岩城と相馬との境に至ると、

政宗、先ず相馬のもとに使者を立て、こう言上させた。

『今度徳川殿、上杉景勝を征伐することとなり、

政宗は領国より会津の搦手を攻めるよう命ぜられました。
白川の方からの道はすでに塞がっており、

東側の道を通って漸くこの国境へと至りました。
しかしここまで、余り道を急いだため士卒ともども疲れきっております。

願わくば城下に旅館を用意していただけないでしょうか?

馬の足を休めて、明日、我が国に入りたいと考えています。』

これを聞いたのは相馬家16代当主、相馬長門守義胤である。

彼は大いに喜んだ。

「あいつの運も遂に尽きたか!

只でさえ伊達は相馬年来の敵であり、

また我らが味方している上杉を討とうとする一方の大将!

今夜夜討ちをし、土地の案内を知らぬ者達をここかしこに追い詰めて一人も残さず討ち取り、
年来の仇に報い、今度の戦役での手柄としようぞ!」

急ぎ民家を旅館として伊達一行を迎え入れ、同時に家臣を集め夜討ちの謀議をした。

と、この謀議の席において、末座より進み出て声を上げたのが水谷三郎兵衛尉胤重である。

「遥か末座の者が進み出てご意見すること、大変恐れ多いことですが、

この謀議の席に参加している以上、
自分の考えを申し上げなければその役目の意味が無いと考え、ここに申し上げます。

世に ”窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず” と申します。

今、伊達政宗ほどの大名が年来の恨みを捨て、
君を頼んで来たというのに、それを謀って闇討ちにするのは、

勇者の本意とする所ではありません!
我が相馬家の、長き弓矢の瑕瑾となってしまうでしょう!

それから、ここを注意してください。

我が城から伊達領までの行程はわずかに3里(約12キロ)でしかありません。
今は未だ未の刻(午後1~3時)を過ぎていません。

政宗が国境に至ろうと思えば、

本日、日の暮れる前にたどり着くことも可能だったわけです。

さらにあの僅かな勢でここに留まること、あの政宗のことですから、

何か裏に謀り事を秘めているに違い有りません。

ここで我々は、警備を全うして今夜一晩彼らを守り、今回は本国へと返してやりましょう。

その上で重ねて合戦となった時は正々堂々と戦って、

勝負を両家に天運に任せるべきではないでしょうか?」

これに満座の衆、賛同し、

相馬家は政宗の旅館の側に食料から馬の飼料、藁束まで積み上げこれを提供し、
夜に入ると旅館の四面に篝火をたかせ兵士たちに徹夜の警備をさせた。

が、その警備の者達もそこは相馬家の者たち、

憎い伊達政宗の警備を命ぜられて心は穏やかではない。
また政宗があまりに落ち着いていることも気に入らない。

そこで政宗の驚き慌てた姿を見てやろうと、
夜更けに馬の1,2匹の綱をわざと切って放ち、

これに驚いた雑人たちが走り逃げ、深夜に騒ぎ罵る声が響いた。
 

するとここに政宗、白い小袖を上に打ちかけ、

左手に刀を携え、小童一人に燭を持たせて現れた。

「相馬殿の人々であるか? 相馬殿の人々であるか?」

「左様でござる!」

「なにやら騒がしいが何事であろうか?

政宗の雑人たちが狼藉を働いたのであれば、よく静めておくように。」

とだけ言い、また寝所へと下がっていった。

そして夜が明ける。

だが政宗の一行はなかなか出立せず、巳の刻(午前9時頃)になって、

相馬義胤の元に使いを出して感謝の念を伝え、その上で静かに馬を出し国境へと向かった。
これを相馬家の者が密かに着けると、国境の駒ヶ嶺のあたりには、

伊達家の軍勢が雲霞の如く満ち政宗を出迎えていた。

さて、関が原の合戦が終わり、相馬は佐竹に連座し改易となる。
ところが、ここに意外な人物が相馬の弁護に奔走し、徳川家に働きかけた。

伊達政宗である。
 

彼は言う。

「相馬はこの政宗の年来の敵であります。

さらに上杉石田らに与する事を決定していたと言いますが、
彼らにはこの政宗を打ち取る機会があったというのに、

私が家康公の仰せを承り馳下るという説明を聞いて、
たちまち古き恨みを忘れ新しき恩を施してくれました。
これは彼らが、野心を挟まなかった証拠ではないでしょうか!?

また相馬家は累代の弓矢の家。

その家を現代に至って断絶するのは、まことに良いこととは思えません!
どうかかの家の本領安堵のこと、お許し頂きたい!」

このような事を折に触れて嘆願した。

この事もあり慶長7年(1602)10月、ついに改易は撤回、本領安堵とされた。
 

この時から相馬家の評定始では、満座の輩、一々に水谷胤重の子孫の座の前に進みより、
「水谷殿のご意見、違うことあるべからず。」
と宣誓して罷り出づる事が長く佳例となったという。

さてさて、その後に政宗、井伊直孝を仲立ちとして義胤の嫡男、相馬利胤に、

伊達相馬両家の仲直りを打診した。
 

利胤これを聞くと言下に。

「我が家はすでに伊達殿の芳志をいただき、本領を安堵することが出来ました。
ですが、我らは累代の敵国、今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります!」

と、遂に両家が仲直りすることはなかったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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→ 筆無精の義胤、相馬義胤

 

 

 

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