義康の廃嫡☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

最上義光には、齢30を越えてから得られた義康といった男子があった。
義光は目に入れても痛くないほどに義康を可愛がり、

連歌や農政、教育を施し、義康もその期待に応える様に、
英遇と武勇を身に付け、領民からも、

「やさしい次代様」

と愛されていた。

義康は義光に従い各地で転戦し、出羽合戦終盤の直江追討では、

狙撃された義光を兵一千を率いて扶助している。

合戦も終わり義光は60を前に庄内に隠居城の用意を考える。

義康と父の義光と仲は良好であったが、義光の近臣・里見民部・正光親子と、

義康の近臣・元上杉家臣原八右衛門が、
父子離反をはかり双方に讒言したことから徐々に仲が険悪となった。
 

折悪しく義康が寺に赴いた際、あやまって石段を踏み外し股を傷つけたのを里見が、

「若殿は大殿を恨み、わざと自傷し周囲の気を引こうとした。」

と義光に言上した事からさらに仲が悪化した。
 

このことは単純な父子の感情悪化だけではなく、

徳川家康が義光の次男・最上家親を近侍として召し使い、
大層気に入っていたため、

彼に最上氏を継がせたいと考えたことがあったと言われている。

1602年(慶長7年)、義光がこのことを徳川家康に語ったところ、

家康は本件を聞き不快を顕にし、
「家親が良かろう、あれは秀忠に良く仕えておる。」と述べたという。

ここに義康の廃嫡が決定的なものとなった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 英邁の資質、最上義康

 

 

 

ごきげんよう!