廃嫡後、義康は家臣・浦山源左衛門ら20名ほどを連れ、
高野山(一説には羽黒山とも)へ向かう途中、
原八右衛門・土肥半左衛門らと兵に鉄砲を射かけられた。
源左衛門は即死、義康は下腹部を2発撃たれ自刃した。
義康の頚は落とされ山形へ送られた。
義光は義康の首を見て涙した。
彼は義康の遺品を調査し、父への武運と長寿を祈願した義康の日記を目にする。
義光は我が子の死を深く悲しみ、家臣・斎藤光則に本件の調査を命じた。
危険を察した里見民部は一族30余名を連れ山形を去り、加賀前田家に逃れた。
義光は自らの死の前、後継者である最上家親に向かって、
「自分の死後、なにがあっても里見一族を粛正せよ。」
と命じた。
義光は義光山常念寺を義康の菩提寺とし、また追善のため仏像をつくり手厚く葬った。
息子の死後、義光は病がちになったとも伝わっている。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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