古河の鮭延翁が、若い頃の話を近習の者にした事があった。
これはその聞き伝えである。
鮭延翁、曰く。
「文禄の頃某(それがし)は、殿(最上義光)について京都におったが、
秀次事件で国屋敷が閉門を命じられていた事があった。
その頃、施薬院玄以、寺西筑後、岩井丹波辺りであろうか、
秀次事件始末の目付の者が太閤殿下に、
『政宗・義光の両家の延沢、鮭延、遠藤文七、原田左馬、片小らの傍若無人な者ともが、
一揆(騒乱)を企て、
武器弾薬や兵を整え京都と大坂を焼き払い、
太閤を攻め殺そうと評定が一致しているそうだ。
これに東国の大名小名が既に同意し、今にも大乱になるのではないかと、
京都・大坂の町人どもが私財を鞍馬・高尾・八瀬・大原に運び入れ、
逃げ支度をしている最中だと言うそうです。』
と言上したそうだ。
これはまったくの嘘だったんだよね。
伊達と最上の人々が無謀を企てるくらいなら、世の中に漏らす事なんてしないよね。
察するに、筋なき下々の者の噂話に尾鰭端鰭がついて、
京童や町人らの間でさも本当の話の様に広がったんじゃないだろうか。
同じ頃に伏見の普請奉行の布施小兵衛と杉山主水、竹中左衛門ら三人が、
江戸中納言秀忠卿に言上して、
太閤殿下の耳にもこの話が伝わったそうだ。
『最上義光と伊達政宗が協同して太閤を討ち取り、
西三十三国を最上領、東三十三国を伊達領とし、
二人は西と東の将軍になろうと内談はすでに決している。
伊達と最上を放置すると由々しき問題です。』
なんて馬鹿馬鹿しい話だと、思わないか?」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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