善徳寺での(相甲駿三国同盟の)会談の時、
武田晴信が北条氏康にこのような話をした。
「貴殿の所に居る原美濃守(虎胤)は、昔それがしの所に居た男で、
ある不届きな事が有って追放したのだが、現在貴殿の膝窩に有って、
この度も出陣し戦功を経てている。
原はその父とともに二代にわたって仕えた者ゆえ不憫でもあり、
こちらへお返し願いたい。」
そう申し出たため、氏康もこの武士を快く返した。
そもそもこの原美濃守の父・豊後守光胤は、房州の千葉介胤親の息子で、
下総の原村の生まれ、文正元年(1466)、
その三男能登守友胤は生実の御所(小弓公方)義明に仕えたが、
その死後離散し、甲府へ来て晴信の父・信虎に仕えたのである。
その子が今の虎胤で、信虎より虎の一字を頂いているほどであった。
去る年、甲府に於いて浄土宗と日蓮宗の法論を戦わせた時、
晴信は虎胤を近くに招き、
「汝が帰依する法華宗では、念仏は阿鼻無間の相なりとて、
大事な名号を禁止していると聞くが、
これからは汝も我が宗門に入り、南無阿弥陀仏を唱えぬか。」
しかし虎胤は、
「その義ばかりは御免被ります。」
と答えた。
晴信はなおも改宗を進めたが、これに虎胤は色をなし、
「御屋形様もご存知のように、もともと手前は無学文盲の一徒輩であったのを、
法華を信仰するようになって、一人前に人間と成ることが出来ました。
およそ宗旨というものの大本は釈迦牟尼如来より出たもので、
それが八宗にも九宗にも分かれて今日に至っています。
そしてどの宗派もそれぞれ開祖があり、その流儀を守っているので、
どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
御屋形様の命であっても、南無妙法蓮華経を南無阿弥陀仏と変えることは出来ません。
それは丁度、武士の道を背き、義理を欠くことと同じでございます。
例え一命を召されようとも、高祖の禁を破り他宗の念仏を唱えることは出来ません。」
そう言い切ると座を立った。
これに立腹した晴信が彼を甲府から追放し、故に美濃守も仕方なく、
小田原へ来て氏康に仕えるように成ったのである。
氏康はその美濃守を召し出して今度の晴信の言葉を伝え、
こんこんと説得して甲府へと返した。
永禄七年(1564)、原美濃守虎胤は甲府で死去した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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