鬼玄蕃の最期☆ | げむおた街道をゆく

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柴田勝家自害後。

 

秀吉卿より諸侯大夫、その他馬廻小姓中へと端午の祝儀として、

美酒肴がおびただしく下し賜れた。

秀吉卿は坂本に10余日御滞留されたが、

「権六郎(柴田勝家の子)と玄蕃(佐久間盛政)は洛中を引き渡して、

六条河原で生害するように。」

との旨を浅野弥兵衛尉(長政)へ仰せ出されたことにより、
その沙汰に及んだ。

 

権六は是非に及ばず、その様子は骨髄に徹して見えたのであった。

 

玄蕃は曰く、
「中川(清秀)を討ち取った後、勝家の下知に任せ早々に本陣へ引き取っていたならば、

どうしてこの期に及んだだろうか。

戦功をまっとうして上方勢を侮らなければ、秀吉を今の私のようにしていたというのに。

果報甚だしき筑前であることよ。」

と言ったので、浅野はこれを聞いて数々の悪口をすれば、玄蕃は振り仰いで、

「大忍の志をおのれらに言って聞かせるのもどうかと思うが、

そもそも頼朝は虜の身となり池の尼(池禅尼)の便りで許しを受け、

後に平家を攻め平らげて父の仇を報じたのだ。

生きて封候を得ず、死して五鼎に煮られようとも侮らない。

これが偉丈夫の志ではないのか!

 知らぬのだな!」

と言って浅野を睨み付け大いに叱り、

「あっぱれ大剛の者なり!」

と人は皆感心し合ったのである。
 

玄蕃は「所詮夢なり」と言って硯を乞い、一首をこう詠んだ。

「世の中をめくりも果ぬ小車は 火宅の門を出るなりけり」

玄蕃は途中で表情を変えることもなく首を打たれた。

“鬼玄蕃”と言われたこともあったというのに。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 鬼玄蕃、佐久間盛政

 

 

 

ごきげんよう!