時は永禄五年、和泉岸和田城近辺。
前年に畠山、六角(あと北畠)連合軍による、
反三好の一大軍事作戦が発起してからというもの、
山城、和泉、河内の三国は戦乱の巷となって焼け野原となり、
中でも畠山・三好あわせて十万とも称される主力決戦の舞台となった、
和泉河内国内の荒廃ぶりはすさまじいものがあった。
ことに文化財の破壊は酷く、由緒ある寺社仏閣は焼け落ち、多くの史書文物の類が失われた。
後世に伝えるべき先人の想いの数々が、無益な兵火の中に失われてしまったのだ。
教興寺の決戦で大勢が決した後。
その有様を見て、悲嘆にくれる一人の男がいた。
彼もまた、その惨状を作り出した一人であるが、
その無常に自らも晒された当事者だからこそ、
ひときわ嘆きも大きなものがあったのだろう。
彼がその時の心情を歌に認めるに曰く、
「古を 記せる文の 後もうし さらずばくだる 世ともしらじを」
(古のものごとをしるした文物、史跡も失くなってしまった。憂い深いことだ。
それがなければたとえ後世にあっても伝わることはないだろうに)
後世に伝えるべき文化、歴史が目前で、己の手で失われてしまった。
おおよそ今を争うべき武家らしからぬ嘆きを書に認めた人物の名を、
三好筑前守の弟、淡路洲本城主、安宅摂津守冬康という。
いずれ自分達も歴史として後世に伝えられる、
そのことを彼は意識していたのかもしれない。
名宝や書を保全することを欲得、悪徳と捉えて敢えて打ち砕くことも心意気なら、
歴史を伝えるという使命を強く意識することもまた心意気の表れ。
そんな戦国武将の心意気のありようを示すお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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