太閤は薨ずる時に、
「喪を秘すように。」
と御遺言されたにもかかわらず、
石田三成は、家臣・八十島助左衛門を家康公に遣わして告げてしまった。
その後、浅野長政が、
「太閤口切の茶壺です。」
といつものように家康公に持ってきたが、
家康公は顔色を変えて、
「茶壺は庭に捨てよ。」
とおっしゃった。
浅野があわてて理由を尋ねると、
家康公、
「すでに太閤が薨じられたことは石田から聞いているので、このような策略は無駄である。
だいたい貴公は昔、太閤から御勘気があったのを、
我が取り直したというのに忘れられたのか。」
すると浅野長政が、
「ああすでに石田が申したのですか。
わたしも貴殿の旧恩を忘れたわけではありませんが、
御遺言ということで近臣みなで喪を秘すべし、と誓ったのに。
すぐに破るとは神罰を省みない不義の至極であります。」
と申したため、家康公も御心をやわらげた。
そののち三成が佐和山に蟄居になったのち、家康公は何を思ったのか、
空き家となった大坂の石田三成の屋敷で居住なさった。
その後、家康公は西の丸に移られるということで、
増田長盛・長束正家は家康公のために大広間と天守を建て奉った。
増田・長束は大広間・天守を進上しただけではなく、
土方雄久・大野治長・浅野長政の陰謀(家康暗殺計画)も告げるという、
一国を賜るべき大功もなした。
それなのに関ヶ原ののち、長束正家は切腹、増田長盛は流浪の身となり、
土方雄久と大野治長は召し出された。
また浅野長政は五奉行とはいえ秀吉公御台所の兄弟であった。
太閤の御遺命を守って内府に知らせなかったばかりか、内府を刺殺しようとしたため、
いかなる刑罰にも値するところ、かえって子孫が代々繁栄するところとなった。
これも主君に忠を尽くしたのを、内府は賢将なので御心に感じなさったゆえであろう。
もしくは忠臣に天佑が味方したゆえ、かく栄えているのであろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!