忠臣・浅野長政☆ | げむおた街道をゆく

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太閤は薨ずる時に、

「喪を秘すように。」

と御遺言されたにもかかわらず、

石田三成は、家臣・八十島助左衛門を家康公に遣わして告げてしまった。
 

その後、浅野長政が、

「太閤口切の茶壺です。」

といつものように家康公に持ってきたが、


家康公は顔色を変えて、

「茶壺は庭に捨てよ。」

とおっしゃった。
 

浅野があわてて理由を尋ねると、
家康公、

「すでに太閤が薨じられたことは石田から聞いているので、このような策略は無駄である。
だいたい貴公は昔、太閤から御勘気があったのを、

我が取り直したというのに忘れられたのか。」
 

すると浅野長政が、

「ああすでに石田が申したのですか。
わたしも貴殿の旧恩を忘れたわけではありませんが、

御遺言ということで近臣みなで喪を秘すべし、と誓ったのに。
すぐに破るとは神罰を省みない不義の至極であります。」
と申したため、家康公も御心をやわらげた。


そののち三成が佐和山に蟄居になったのち、家康公は何を思ったのか、

空き家となった大坂の石田三成の屋敷で居住なさった。
 

その後、家康公は西の丸に移られるということで、

増田長盛・長束正家は家康公のために大広間と天守を建て奉った。
増田・長束は大広間・天守を進上しただけではなく、

土方雄久・大野治長・浅野長政の陰謀(家康暗殺計画)も告げるという、

一国を賜るべき大功もなした。
 

それなのに関ヶ原ののち、長束正家は切腹、増田長盛は流浪の身となり、

土方雄久と大野治長は召し出された。
 

また浅野長政は五奉行とはいえ秀吉公御台所の兄弟であった。
太閤の御遺命を守って内府に知らせなかったばかりか、内府を刺殺しようとしたため、

いかなる刑罰にも値するところ、かえって子孫が代々繁栄するところとなった。
 

これも主君に忠を尽くしたのを、内府は賢将なので御心に感じなさったゆえであろう。
もしくは忠臣に天佑が味方したゆえ、かく栄えているのであろう。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 古狐が殿下に、浅野長政

 

 

 

ごきげんよう!