去るほどに、栄える者は必ず衰え、生まれる者は必ず滅するの理の通り、
朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え、
近年(朝倉義景の時代)多くの一族や被官が、或いは病死し或いは討ち死にし、
家運の危うさは言うまでもなかった。
先ず右兵衛尉景高の嫡子次男が、一年の内に二人ながら死去し、
その後景高も死去して末子孫三郎一人残命した。
九郎左衛門景紀の嫡男四郎左衛門景ミツは、
加賀へ出陣した折、大将であった景高と相論して自害し、
その舎弟中務大輔景恒も死去したが、父景紀も程なく卒去した。
堀江左衛門三郎景忠は、朝倉義景の勘気をこうむって能登国に立忍び、
伊勢左衛門太郎景茂は、過酒して不慮に酔死したため、
国の防衛も薄く心もとない状況になり、人々は只薄氷を踏む心地であった。
その外、玄蕃助景連、同次郎左衛門景高、前波藤右衛門景定、
小林備中守、窪出九郎右衛門、黒坂備中守といった、
千騎二千騎の軍勢を引廻すほとの者共も悉く死亡して、
その後に義景は少数の、若輩の佞人たちだけに世を任したため、
功のある者には恩賞無く、罪の有る者は誅伐されず、
彼らは奢りを極め欲を縦にし、己を強くし君を弱めて、
終に国の禍を招いたのだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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