信長公の御眼力も相違していたかのように☆ | げむおた街道をゆく

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佐々内蔵助成政は、秀吉の越中征伐の結果降参し、命を助けられ、

同朋衆となって二年ほどあったが、この時秀吉公は思し召された。

「昔、信長公に召し仕われた時には、

私よりも上位の者であったが、今はこのようになった。
これは私の弓矢の威光故である。

もはやこのように成った以上、このまま差し置いていては、
信長公の御眼力も相違していたかのようになってしまう。」

こうして九州平均の後、天正十五年六月、肥後一国を成政に賜り、陸奥守と改めて、

肥後熊本に在城した。

ところが佐々は、国の政道悪しく、諸事逆絽である故に、

肥後国菊池郡の隈部親永・親泰父子が一揆を催し、佐々を追い払おうとした。
佐々は単独でこれを鎮定する事ができず、秀吉公はこれを聞かれ、

柳川城主の立花飛騨守宗茂、その頃は左近将監と申したが、

加勢を仰せ遣わされ、押し向かって勇功を顕した。
 

その後浅野弾正(長政)を遣わされ、一揆悉く退治有って、

肥後国を加藤虎之助(清正)に賜り、
佐々は摂州尼崎まで呼び上げられ、彼の地に於いて切腹仰せ付けられた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ さらさら越え、佐々成政

 

 

 

ごきげんよう!