成政の最期☆ | げむおた街道をゆく

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肥後国人一揆も概ね制圧されると、

天正16年(1588)、秀吉は上意によって佐々成政に畿内に上がるよう命令した。
 

そこで成政は直ぐに尼崎まで上がり、その地の法華寺にて命を待っていた所、
藤堂和泉守(高虎)が検使として派遣され、秀吉の御意を伝えた。

 

それには、
『去年九州に馬を出し(九州征伐)、西国においてはめでたく相治まったはずなのに、

そこで肥後に一揆が蜂起したのは、
すべて内蔵助(佐々成政)が時分をわきまえず厳しい施政を行ったためである。

それにより天下の騒ぎを起こしてしまった!
小早川隆景も統治の難しい国に遣わしたが、彼は何事も神妙に仕置きしたため、

見事に鎮めたと聞いている!
私はやがて東国に出馬しようと考えているというのに、

西国の統治が動揺しているように東国に伝わり、
東国に私の政権能力に対し疑問を抱かせた、

そして諸大名への今後の見せしめのため、切腹を申し付ける。』

成政はこれに従い、庭の泉水の所まで行き、

石に腰掛け、家臣の主馬を呼び出し、金30枚、その他身の回りの衣装など、
すべて主馬に渡し、自分の座っている石を見て、

「この石は、内蔵助腰掛岩と呼び伝えよ!」

そう言うと腹を十文字に掻っ切り臓腑を掴み出し、

「時分は良いぞ!」

と、己の頸を差し出した。


そこを、藤堂高虎が介錯したとも、また小姓が介錯したのだとも後に沙汰された。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ さらさら越え、佐々成政

 

 

 

ごきげんよう!