何事も変わり果てたる、世の中に☆ | げむおた街道をゆく

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佐々成政は、日本アルプスを踏破して12月1日、信州上諏訪に到着した。
 

諏訪頼忠からの第一報を受けた徳川家康は、この予想だにしなかった来客の報に驚き、
乗馬50匹・伝馬100匹を迎いとして出立させたという。
 

成政は駿府で一旦歓待された後、間を置かず遠州浜松に移動し、

12月4日いよいよ対面となった。
 

結果はよく知られているように、家康側は外交的な辞令に終始し、
落胆した成政は信雄に謁見するため12月10日頃、清須に向かった。
 

成政は、「将来必ず織田家の立場は危うくなる。」と根気強く説得したが、
信雄は態度を左右するのみで、徒に月日は過ぎていった。
 

成政は滝川勝利とも面会し、滝川家を通じて信雄の再挙兵を促そうとした。
が、小牧・長久手合戦後、伊勢の所領を失い零落していた滝川家の近況を見知るにつけ、
成政は反・羽柴陣営の再構築が完全に困難であることを痛感し、相当な衝撃を受けた。
 
望みを絶たれた成政一行は、12月26日清須を出立。
来た道を引き返しながら、浜松城を経由し、再び越中へ戻ることになった。
その前に、成政と共に越山した佐々政元、前野勝長(前野長康の弟)等は、
最後の帰郷になるかもしれないと各々の故地に立ち寄っている。
ある者は付き従った従僕を留め置き、ある者は以下のように悲壮な思いを語っている。
「末森合戦の結果、主人・内蔵助の娘は大坂で磔にされております。

殿の頭からは姫子を見捨てて、
織田家を取ったのだという思いが強いようです。

ここに至っては、越中に立て籠って、
筑前守と最後の一戦を交わし、

越中武者の忠節を上方に思い知らせるのみです・・・。」

得るものもなく、再び厳寒の日本アルプスを前にした時、

成政の頭には何が過ぎったのだろうか。
家康の当り障りのない対応、煮え切らない信雄、滝川家の零落、見殺しにした娘、そして信長。
本能寺の変からまだ3年と経たず、世の中はあまりに大きく変化してしまった。
そんな思いを胸に、成政をこの時、以下のような詩を詠んだという。

「何事も 変わり果てたる世の中に 知らでや雪の白く降るらん」

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ さらさら越え、佐々成政

 

 

 

ごきげんよう!