佐々内蔵助成政の領国の越中は大国と申せども、
過分の数の軍兵を召し抱えられていることは、不審に思われるのも最もであった。
その故は成政は謀反の心を抱き、尾張内府(織田信雄)と徳川(家康)殿に加担し、
『北国の大将』と呼ばれたいと心中に思われたからである。
越中は山の多い国であるから、知行の内に、山野までも含めたり、
或いは、上方から知行五千石と約束して呼び出し六千石、七千石、
又は、千石と言って千五百石を判形(知行を与える際の署名)で保証したりしたので、
我も我もと越中を志して下ったのである。
ところが所付(領知の内訳を記した文書)を見ると、
石高は一割五分から二割足らないものであったので、
人に知られた侍達は暇を乞い上洛したり、
あるいは加州利家卿に認められ暇を出す者も多かった。
その内に加賀越中に争いが生じたので、さすがに兵達も成政を見捨て上洛もし難く、
そのまま留まらざるを得なくなり、
越中勢は思いの外人数が多かったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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