頑固な右近と秀吉☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

秀吉の伴天連追放令後、相次いで棄教する大名。
黒田孝高、長政親子、蒲生氏郷、大友義統、小早川秀包らであった。
 

信仰を棄てずとも、表向きには露にしなくなった小西行長のように、
大名らは秀吉には絶対逆らえない状況の中、高山右近だけは頑固だった。
 

棄教はおろか、表立っての信仰も何ら変えるつもりも無い旨を公言する始末。
心配した使者の増田長盛、小西行長、そして利休までが、
「もっと大人になれよ、もう止めましたってポースだけで良いんだから。」
と口を酸っぱくして忠告するも、右近は頑として聞き入れない。
 

これまで信長の摂津攻め以来の仲であり、

武将、茶人、西洋通の彼を高く評価していた秀吉も、
一度公式発表した手前特別扱いは出来ないし、右近の頑な態度に腹もたった。
明石の封地は召し上げ、追放とした。

その後、極貧の時期紆余曲折あるも、加賀の前田利家に、高山右近は仕える事となる。
最初は500石、最後には2万石の高禄となった。

前田家の家臣として参加した小田原攻めの際、右近は優秀な前線指揮官ぶりを発揮。
数は少なくとも右近の兵士は皆キリシタンであり、

誰の目にも明らかなように、
旗指物にはくっきりと十字架が描かれていた。
胸には十字架のペンダントを飾りながら、川越、松山、鉢形、八王子城攻めに参加。
皆、取り憑かれたような凄まじい奮戦ぶりであった。

その勇猛なキリスト教徒部隊の働きは、当然秀吉の目にも入った。
が、まこと見事じゃな、というだけで苦笑する大人の秀吉であった。

後に秀吉の朝鮮侵攻のために名護屋での滞陣の折、前田家の家老として参陣した右近。
機嫌良く茶席に招いた秀吉の眼前、右近は礼を尽くしつつも全く無言であったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

こちらもよろしく

→ 洗礼名・ジュスト、高山右近

 

 

 

ごきげんよう!