織田信忠は、本能寺にて父・信長が、明智光秀に襲われたことを聞かれると、
自身も父とともに本能寺へ籠ろうと出られたが、
そこに村井長春(貞勝)親子三人が参上し、
「本能寺ははや火が懸かり、事終わりました。
また妙覚寺へ帰られるべきでも有りません。
二条の新御所へお籠りに成るのが尤もです。」
と言上したため、則ち二条へ移られ、親王若宮を内裏へ移し奉った。
しかし寄手も襲ってこないため、
「安土に移られ、その上で惟任を御退治されるべきです。」
と各々言上した。
だが信忠は、こう言った。
「これほどの謀反の企てをする奴原が、
どうして京の口々に手を廻さずにいるだろうか。
安土に向かう途中で相果てるのは無念である。
徒にここを退くべきではない。」
これに近臣の毛利新左衛門、福富平左衛門、菅屋九右衛門たちが、
「尤もの御諚。」
と申したため、信忠の言うとおりに定まった。
しかし実際には、惟任はこの行動を深く隠密に行っていたため、
路地に人を置くと言った事は成されておらず、
安土に移ることは問題なく行えたのであり、
これも御運の末であったのだろう。
午刻(午後0時ころ)に及び、惟任は一万ばかりにて押し寄せた。
二条に籠もった人々は、坂井越中守、團平八、
斎藤新五、野々村三十郎、赤座七郎右衛門、猪子兵介、塙伝三郎、
飯尾茂介、村井長春親子三人、
菅屋九右衛門親子三人、毛利新左衛門、織田源三郎を始めとして、
屈強の衆六十五人、もとより身命を惜しまず相戦ったため、
暫く抗戦が続いたが、
その後寄手は隣家に上り弓鉄砲を以て攻めたことで、
信忠は切腹された。
鎌田吾郎左衛門が介錯し、その御遺骸は遺言に任せ、
焔の中へ入れ奉った。
歳二十六であった。
この鎌田は追腹を切ると言ったのだが、どうした訳か終に切らなかった。
右の六十五人の内、討ち死にした者は六十三人であった。
織田源五(信長弟有楽)は逃げ出た。
時の人はこれを悪んだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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