信忠の最期☆ | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

 

織田信忠は、本能寺にて父・信長が、明智光秀に襲われたことを聞かれると、

自身も父とともに本能寺へ籠ろうと出られたが、

そこに村井長春(貞勝)親子三人が参上し、
「本能寺ははや火が懸かり、事終わりました。

また妙覚寺へ帰られるべきでも有りません。
二条の新御所へお籠りに成るのが尤もです。」
と言上したため、則ち二条へ移られ、親王若宮を内裏へ移し奉った。

 

しかし寄手も襲ってこないため、
「安土に移られ、その上で惟任を御退治されるべきです。」

と各々言上した。
 

だが信忠は、こう言った。
「これほどの謀反の企てをする奴原が、

どうして京の口々に手を廻さずにいるだろうか。

安土に向かう途中で相果てるのは無念である。

徒にここを退くべきではない。」

これに近臣の毛利新左衛門、福富平左衛門、菅屋九右衛門たちが、

「尤もの御諚。」

と申したため、信忠の言うとおりに定まった。

しかし実際には、惟任はこの行動を深く隠密に行っていたため、

路地に人を置くと言った事は成されておらず、
安土に移ることは問題なく行えたのであり、

これも御運の末であったのだろう。

午刻(午後0時ころ)に及び、惟任は一万ばかりにて押し寄せた。

二条に籠もった人々は、坂井越中守、團平八、
斎藤新五、野々村三十郎、赤座七郎右衛門、猪子兵介、塙伝三郎、

飯尾茂介、村井長春親子三人、
菅屋九右衛門親子三人、毛利新左衛門、織田源三郎を始めとして、

屈強の衆六十五人、もとより身命を惜しまず相戦ったため、

暫く抗戦が続いたが、

その後寄手は隣家に上り弓鉄砲を以て攻めたことで、

信忠は切腹された。
鎌田吾郎左衛門が介錯し、その御遺骸は遺言に任せ、

焔の中へ入れ奉った。

歳二十六であった。

この鎌田は追腹を切ると言ったのだが、どうした訳か終に切らなかった。
右の六十五人の内、討ち死にした者は六十三人であった。
織田源五(信長弟有楽)は逃げ出た。

時の人はこれを悪んだ。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 幼名・奇妙丸、織田信忠

 

 

 

ごきげんよう!