織田信忠の小姓に、佐々清蔵、山口小辨という二人の少年があった。
清蔵は佐々成政の甥で、武士の家系であったが、
小辨は伏見あたりの賤しき者の子であった。
しかし、この二人は容貌殊の外優れ、また賢かったので、
禿(かむろ)として常に信忠の元で使われていた。
さらに清蔵は観世流の能を、小辨は小歌の名人であったので、特にその寵愛を受けた。
天正10年(1582)。
武田征伐における高遠城攻めの時、両人共に16歳にして抜群の働きがあり、
織田信長は、これを聞くと両人を呼び出し、先ず山口小辨に、
「この度高遠にての働き、稀代の至りである!
城介(信忠)の眼鏡違わず、ひとしお満足の事である!」
そう褒め上げ、手づから国久の腰の物に感状を添えて下した。
次に佐々清蔵を召し、
「高遠にての骨折り、天晴であった!
ただし汝は手柄するのも当然である。
何故ならあの大剛の内蔵助(成政)の甥だからだ。」
と仰せられ長光の腰の物に感状を添えて下された。
これを見聞きした者たちは二人の名誉を羨むと同時に、
「信長公はさすが智勇兼備の大将である。あの褒められ様を見たか?
小辨は卑しい身分の出身なので、手柄高名誠に稀代なりと仰せられ、
清蔵は武士であるから伯父内蔵助の名まで出して賞せられたること、
流石名将の一言一行、感ずるに余りある。」
と言いそやしたそうである。
さて、このことがあって60日あまりにして、明智光秀の反逆により信長は弑せられた。
その時、信忠は二条城にあったが、
光秀の兵がそこにも襲い来て同じく討ち取られたその時に、
この清蔵、小辨の二人の小姓は互いにいい合わせて、
「今は我々も討死すべき時である!
されど素肌(鎧を着ていない状態)にて死ぬことは、
屍の上に恥を晒すことである。
厳しく物具して死のう。
そうであれば緊急の事態で何致し方ない。
共にひとたび敵軍に討ち入り、良き兵討ちてその物具を取って着よう!」
そう確認すると二人、勇んで突き出て、思った通りの敵を討ち取ると一度陣に帰り、
その物具を二人共、厳しく装うと、互いに微笑み合い、
再び切って出て敵勢と渡り合ったが、ついに二人共、討ち取られた。
ただでさえ紅顔の美少年であった二人の思い切ったる働きに、
この戦場の人々も彼らから目が離せなかったが、
その死んだ時、美しい顔に血が流れ、前髪も朱に染まっていたのを、
敵も見方もこれを見て嘆くこと、ひとかたでは無かった。
そして多くの京童たちも二人の少年の首のもとに集まり、
その健気さを惜しみあった、とのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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