織田信長は、佐久間信盛・信栄父子へ折檻状を下し、
楠長庵、宮内卿法印、中野又兵衛の三使を以て配所の定めもなく、
ただ急ぎ天王寺を出よとの命令故に、多年蓄えた無量の珍宝を振り捨て、
どうにか持って出れたのは黄金二十枚のほかは、腰に指した刀大小のみであり、
また彼らに従う者もなく立ち出た。
心中を察するも哀れである。
しかしこれは、日頃筋なき福を強いて求めてきた、
その報いでも有るのだろう。
久しく相馴れた召使いも、常々の情が浅かったのか、
皆己のために様々に散っていった。
利を独り占めして何かを行えば恨みが多いと言われるが、それはこの事だろう。
大将たる人は、衆と好悪を同じくすることこそ重要である。
然しながら、高野山までは三人ほどが、僅かに志を遂げ付き従ったが、
これも、彼らには世間から去り難い馴染みがあると考えられており、
その人々から批判を受けないことを考えただけで、
心から行ったことではなかったのだろう。
そのうちの二人は高野山で暇を乞うた。
こうして高野の居住も叶い難くなり、それまでは二万余騎の大将も、
一僕に手を引かれ、父子すごすごと、
未だ夜深き中を辿り出るのは、鹿ケ谷事件で平清盛により流罪とされた、
藤原成親卿の左遷の旅も、このようであったかと哀れであった。
高野山の辰巳に、相郷という柴を結んだ民家が僅かに4、5軒ある場所に辿り着き、
暫くの安を得た。
ここに山岡道阿弥入道、その頃は八郎左衛門尉と言ったが、平井阿波入道安斎も伴って、
剣難の山路を凌いて訪れ、信盛父子との再開を果たした。
これに信盛父子は涙を押さえて、
「今の深志、山より高く海よりも深い、何に例えればよいのか。これは夢だろうか。」
と、手に手を取って懐かしげに見まえた。
山岡も平井も、かつては遥かに下がった場所から信盛父子に接していたが、
今はこのように、同胞の親しみにも勝ったように見えると、
見る人の魂を感動させ、聞く人は涙で袖を絞った。
誠に信盛が世にあった頃は、皆がその恩を慕い少しでも交わることを望んだものだが、
今はその影すら無い。
そのような中での両人の志は、
誠に浅からざりし事であると、世の人これに感じ入ったのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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