天正5年(1577)、松永久秀が信貴山城に滅びると、
織田信長は、この信貴山攻めを行った佐久間信盛を呼び、
「これまでの功績と合わせ、播磨一国を与える。」
と伝えた。
この頃、佐久間信盛は、畿内を始め尾張、西三河などに多くの所領と配下与力を持ち、
これにさらに播磨一国まで加われば、織田宗家に優に対抗できるほどの勢力となる。
当時の佐久間信盛への信長の信頼がどれほどのものか、よく分かる話であろう。
が、信盛はそれを断った。
「所領は要りません。それよりも…。」
信長所秘蔵の茶道具の一つ、古作の播知釜を望んだのだ。
「それは…。」
と信長も躊躇したが、信盛の功績に鑑み、ついにこれを与えた。
後、佐久間信盛はご存知のよう追放される。
そしてこの播知釜は、信盛の遺品として、息子信栄に伝えられた。
信栄は高名な茶人と成ったが、
この父の形見の播知釜で、よく茶を立てたとのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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