豊臣秀吉が、休戦期間を挟み、再び朝鮮への出兵を命じた慶長の役において、
巨済島沖に出没した300隻の朝鮮水軍と、日本軍が激突した際、
決戦前の軍議で藤堂高虎らが、
「まず偵察船を出して様子を探った上で、大船で攻撃すべし。」
と主張したが、
加藤嘉明は、
「いや、ここは中船であえて弱く見せて機を伺って攻勢に出るべきだ。」
と提案したが、
これが不採用になると
「配下の乗った偵察船を連れ戻す。」
という名目で味方の船団から離れ、そのまま一隻で敵に先制攻撃を仕掛けて、
自ら敵船に飛び移る奮戦で、多くの敵船を乗っ取った。
軍勢の軍監だった奉行達からは、
「あの命知らずの働きを見よ。」
と称えられ、抜け駆けの件でも咎めは受けなかったものの、
後から戦いに参加した武将達からは、
大いに不満を抱かれたという。
その後、奉行たちに手柄を報告する際にも高虎が、
「儂の功績は皆の中でも随一である。」
との言葉に嘉明は、
「貴殿は小舟を2、3隻捕えたまでの事。その点儂は大船を捕獲した。比較を絶しておる。」
と反論。怒った高虎が刀を抜いても顔色一つ変えず、
「周りの目を気にして、むやみに気張って見せるのは子供のする事ぞ。」
と押しとどめ、
「高虎とは器が違う。」
と周囲に感嘆されたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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