天文15年(1546)、武田晴信の配下である真田弾正幸隆の元から、
二人の武士が、村上義清の元に逃げ込んできた。
彼らは、須野原若狭・惣左衛門兄弟。
元々海野家の家老筋の一族であり、武勇に優れ、智慧と才覚があり、
戦の技術をよく身につけていた。
義清もたちまちこの兄弟を信用したが、そこで兄弟は、
「我々は真田の城の事を良く知っており、これを奪って差し上げたいと思います。
そのために、優秀な武士を選んでお貸しください。」
と提案した。
義清はこれに乗り、旗本の騎馬武者まで出して、有能な武士500人を選んだ。
そして充分に用心し、慌てぬようにと言い含めた上で、須野原兄弟に引きあわせた。
そして兄弟には、乗馬、鞍、太刀、脇差、朱印の付いた知行の目録を添えて出した。
兄弟は太刀と脇差だけを受け取り、他の物は返して、
「近いうちに作戦を成功させた上で参上し、重ねて頂戴いたします。」
と申し上げ、義清の言うとおりに熊野の牛王の起請を書き、
そして村上家選り抜きの武士たち500人を率いて、
真田の城へと向かった。
侵入は成功し、彼らは二の郭まで入った。
その時、前後の門が突如閉ざされ、本城と三の郭より挟み撃ちにして、村上勢500人は、
一人残らず討ち取られた。
味方の死傷者は、皆無であった。
これは真田幸隆の謀略であり、
これによって、翌年の上田原の戦いで、武田晴信は勝利を治めたのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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