羽尾幸全の滅亡☆ | げむおた街道をゆく

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羽尾氏という豪族が、上州吾妻郡にいた。

本姓は滋野、家紋は六文銭で、あの真田氏とは同族であり、
四阿山を挟んで、ほぼ隣同士という間柄であった。
 

天文10年(1541年)の海野平合戦に海野氏が敗れ、

その下にいた真田幸隆が上州に脱出した際、
当時の当主・羽尾幸全は、その手助けをしたという。

この二人が再び相まみえたのは永禄6年(1563年)9月、敵味方に分かれてだった。
 

当時、真田幸隆は信濃先方衆として武田家に仕え、
同じく武田に仕える鎌原氏を支援するために吾妻郡にやってきた。
 

羽尾幸全は上杉に臣従しており、

同じく上杉に臣従した岩櫃城の斉藤憲広の援軍として、岩櫃城に立て篭もる。

幸隆は3000の兵を持って攻め立てたが、

天険を利用した山城である岩櫃城はなかなか落ちない。
力攻めは不利と悟った幸隆は和睦を結んで、

一時兵を引くと同時に、調略を開始。


城主の甥・弥三郎、羽尾幸全の弟である幸光・輝幸を寝返らせ、城を落した。
幸全は、この時、討ち死にしたとも、越後に逃れたともいわれるが、消息は不明である。
形はどうあれ幸隆は、恩人を攻め滅ぼしたのだ。

この時、裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として活躍し、
幸隆の子・昌幸の代には、岩櫃城、沼田城の城代になっている。
が、天正9年(1581年)謀反の疑いをかけられ粛清された。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 攻め弾正、真田幸隆

 

 

 

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