南部下野殿(宗秀)改易は、信玄公28歳の時。
山本勘介と申す大剛の兵は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時に信州諏訪において、南部殿家中の者・石井藤三郎という男を、
南部殿が成敗致し、切り損なって藤三郎は逃げ回った。
折しも勘介は、その近所に居当たり、勘介のいる座敷へ藤三郎が切って押し込んだ。
勘介は刀を取り合わせず、そこにあった薪雑棒を取り向かい受けて組転ばし、
藤三郎に縄を掛けて南部殿へ渡した。
少しずつ手傷3ヶ所を負ったが、手傷と申す程のことでもない。
子細は30日の内に平癒したからである。
とりわけ勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度少しずつ手負い、86ヶ所の傷跡があった。
それを南部殿は悪しく沙汰なされるも勘介は何も言われなかった。
この南部下野殿も、甘利備前(虎泰)・板垣駿河(信方)・小山田備中に続いて、
少しは武辺の覚えもあるといえど、
噂で常に無穿鑿なことばかり言い、遠慮もなく明け暮れ過言を申され、嘘をつきなさる。
無分別で山本勘介を憎み、
「国郡を持たぬ者の城取・陣取。外科医者も大したことはないものだと思うが、
ましてや兵法使いが手傷を負っている。」
などと言って、山本勘介を尽く悪口なされた。
目付衆・横目衆はやがてこれを御耳に立てた。
信玄公は聞こし召し長坂長閑(光堅)・石黒豊前・五味新右衛門を御使になされ、
すなわち書立をもって仰せ下された。
その御書の趣は、
「南部下野が、山本勘介という大剛の兵を悪口したのは無穿鑿である。」
とのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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