御朱印を、取らなかった訳☆ | げむおた街道をゆく

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天分15年7月21日、武田晴信は山本勘助を召して、

足軽を新たに50付け、始めの足軽と合わせて75人、
知行も五百貫加増し、始めの三百貫と合わせて八百貫となった。
 

この事を報告するため、勘助は少しの間暇をいただき、

駿河の今川家、庵原殿の元に参った。
かつて抱え置かれたことのお礼を申し上げた上、

「晴信公が私を甲州に召される時、百貫の約束をされた事に、庵原殿はご異見として、
晴信公から約束を書いた御朱印を取った上で甲州に行くべきだとおっしゃいました。
私はそれに背き、あの時、朱印は取らないと申しました。

その理由として、私はちんばで、片目で、色黒く、醜男で、しかも無人前でありましたから、
いざ対面すれば、このような者に百貫の知行は過ぎたものだと思われかねず、

実際に知行を下されない事態になれば、私が他国に走り、

晴信公は虚言を仰る屋形であると言われないように打ち殺すであろうから、

御朱印は取らないのだ、と申しました。
しかしそれは、皆偽りだったのです。

あの時私は、御朱印を取って参れば、私をどのように評価されても百貫限りと考えられ、
加恩を頂くことが出来なくなると考えたのです。

私は晴信公を、日本の若手の中でも名大将になられるべき屋形だと思っていたので、

御朱印を取らずに参りました。

私が召されたことへの御礼を申し上げると、

晴信公はその場で、二百貫の書き出しを下されました。
 

その上で。
『勘助が醜男であるのに諸人にその名を呼ばれている。

それは何か良きことの証拠があるからこそ、名も高いのであろう。

名高きものが無手である事はない。』
と仰せに成りました。

 

当時23歳で、これほどの大将はどこの国にも稀です。
そして今や、私が召し出される前に考えていたように、政道賢き名大将になられました。

名将は必ず、人の取りなしにも男ぶりにも構われず、

武士道の武略知略の侍を第一として、馳走し崇敬なされる物でありますから、

私も晴信公の御意に是非とも取り入り申すべきと、

兼ねて覚悟した如く仕り、今まで4年間の手柄によって、八百貫の知行を拝領いたしました。」

と、申した。彼は5日間駿府に逗留し、甲府へと帰った。
駿府においては、それまで山本勘助を褒めるものは誰も居なかったが、

以後は褒め称えられるように成ったという。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

こちらもよろしく

→ 啄木鳥の戦法、山本勘助

 

 

 

ごきげんよう!