諏訪頼重が死に、諏訪の家は断絶したが、
頼重の十四歳になられた娘は、尋常かくれなき美人であられた。
晴信公はこの娘を妾にと望まれたところ、
板垣信形、飯富兵部(虎昌)、甘利備前(虎泰)の三人を始め、各家老達が晴信公に向かって、
「退治なさった頼重の娘を召し抱えることは、女人といえど敵にあたるゆえ、
いかがなものでしょうか。」
とお諌め申し上げた。
ところが、三年前から駿河から召し寄せられた三河牛窪生まれの侍、
山本勘介がささやいて、板垣・飯富・甘利殿の三人の侍大将に申すには、
「晴信公の御威光が、たいしたことでなければ、諏訪の者達も、
公に伝手があることを悦び、よからぬ策略を立てるかもしれませんが、
晴信公のご威光は浅くありません。
私は日本国中を大方見聞きいたしましたが、
中国安芸の毛利元就は、本の知行七百貫から弓矢を取って過ごして、
今では中国の大方を切り従え、四国九州にまでその威光が及んでおります。
既に天下にご意見申し上げる三好長慶さえ、
元就の機嫌をとっていることは隠れもない事実です。
晴信公は二十五歳前でありながら、
この元就にもさほど劣っておられないご威光の方であると、
駿河にいた頃から承って、恐れながら私の考えでは、
日本国中第一の若手の武将と存じ上げてまいりました。
私が甲府に参りまして二年余りおります間に、晴信公の御言葉を承り、
また敵との戦いの様子拝見致しますに、
この屋形様は、ご長命でさえいらっしゃれば、
将来は必ず日本無双文武二道の名大将と呼ばれましょう。
したがって、諏訪家の親類被官たちも、いかなる謀略をも考えつくことはありますまい。
そうであるなら、頼重の息女を召し抱えることを諏訪衆悦び、
そのお腹に御曹子が誕生されれば諏訪の家を立てるかもしれないと望みをかけ、
武田譜代の人たちに劣らないご奉公をつとめるでありましょう。
そのためには頼重の息女を召されることは、けっっこうなことと存じます。」
であると。
この山本勘介の工夫した意見により、晴信公は頼重の息女を召し置かれることになった。
勘介の考えのように、諏訪衆は皆これを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年丙午四郎殿が誕生されたので、
諏訪衆は屋形様を大切にすること、譜代衆同然であった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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