山本勘助が、駿河から甲府に、初めて召し寄せられた時、
武田信玄は、勘助に駿河今川家の噂を尋ねた。
勘助は申し上げた。
「義元公の御家は昔から高家とされています。
つまり京の公方家が絶えれば吉良がその後を継ぎ、
吉良も絶えれば今川が継ぐとの謂れがあり、
家風何れも少しも欠けるものは有りません。
しかも駿河・遠江・三河三ヶ国の主であれば、
様子気高く、物の名人が他国より集まり、
殊更良き家老集も沢山あり、その配下は中名、小名まで武道を心がけていること、
言うまでも有りません。
その上、臨済寺雪斎が義元公の補佐をし、公事沙汰万事の指引浅からざるゆえ、
尾張国織田弾正なども駿府に出仕いたすようになったので、
末々は京都までも義元公が御仕置きなさるようになると、
各々風聞されています。
ですが、私は一段危ういと考えています。
どういう事かといえば、仮に雪斎が明日にでも亡くなれば、
その後家老衆の政務のさばきが、たとえ良かったとしても、
雪斎の政治の印象があまりに鮮やかであったため、
彼が補佐していた時代より、政務の裁きは劣っていると、諸人は考えてしまいます。
だからといって雪斎のような物事をよく知る長老にまた頼るようであれば、
今川家について、
尽く坊主がいなくては成り立たぬ家であると諸人の批判を浴びるでしょう。
これが私の考える今川家の危ういことです。」
信玄はこれを聞いて、
「山本勘助は、聞こ及んだ事に違わぬ分別・才覚の持ち主であり、
工夫の智略も宜しく思案する広才人である。
たとえ一文字も書けなくても、学問がなくても、物識りと呼ぶべきはこの勘助である。
彼はただ、智者と申すべき人物だ。」
そう申して、信虎の時代より二代にわたって仕えた4人の足軽大将に、
この勘助を加え、
その年から五人衆として再編したのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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