天文十二年正月三日に、武田の家老衆は打ち寄って、
その年の武田晴信公の御備について談合した。
「諏訪、或いは佐久、小縣の敵味方の境において、
味方の城を構築する場合、その城の設計を能く致せば、
千の人数で保持する城であっても、三百で保つ事が出来る。
これは城の取り様、縄張りに奥義があるためである。
このような城の設計を能く存じたる剛の者が、
駿河の今川義元公の御一家、庵原殿の亭衆に居る。
彼は今川殿の直臣と成ることを望んだが、義元は召し抱えなかった。
かの者は三州牛久保の侍だが、
四国、九国(九州)、中国、関東までも歩き廻った侍であり、
山本勘助と申す。
大剛の武士であると聞く。この勘介を召寄せお抱えあるべきである。」
この事は板垣信方より晴信公へ申し上げられ、
これにより、知行百貫の約束にて、その年三月、駿河より勘介を召し寄された。
勘介の御礼を受けられ、晴信公は即座に仰せ付けられた。
「勘介は一眼、さらに手傷を数ヶ所負っているため、手足も少々不自由に見える。
色黒く、これほどの無男でありながら、その名が高く聞こえるのは、
能々ほまれ多き侍であると覚える。
このような武士に百貫は少分である。」
との儀にて、二百貫を下された。
さて、その年の暮、霜月(十一月)中旬に晴信公は信州へ御出馬あり、
下旬より十二月十五日までの間に、
城九つ落ちて晴信公の御手に入ったのだが、
これは偏に山本勘助の武略の故であった。
晴信公二十二歳の御時の事である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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