駿河での今川義元公の時代に、山本勘介が三河国、牛窪(愛知県豊川市)より、
今川殿への奉公を望んで参上したのであるが、
この山本勘介は散々な醜男で、その上に隻眼であり、
指も足も不自由であった。
しかし彼は大剛の者であったので、義元公が召し抱えられるように、
勘介の知己であった朝比奈兵衛尉が彼のことを、
「この山本勘介という者は、大剛であり、
特に城取り、陣取りといった軍法は良く鍛錬されています。
剣術も京流の上手であり、軍配も良く知っています。」
と申し上げたが、義元公がお抱えになることはなかった。
駿河の人々の噂では、あの山本勘介は第一片輪者であり、
それに城取り陣取りの軍法を鍛錬したというが、自分の城を持ったこともなく、
兵を持ったこともない者が、どうしてそのような事を知れるものだろうか。
彼は今川殿に奉公したいがために虚言を言っているのだ、と言い合った。
それから勘介は9年も駿河にいたけれど、今川殿が召し抱えることはなかった。
この9年のうちに剣術のことで、
2,3度手柄があったが、
この当時は、新当流(塚原卜伝の流派)の兵法こそ本物であり、
勘介の京流はそれに劣るものだと、人々は噂した。
加えて、勘介は牢人の身であったため、草履取りすら一人もつれておらず、
彼について非難するものこそ多かったが、良く言うものなど一人もいなかった。
しかし、この事は実は、今川殿の御家が万事にわたって活力を失い、
御家が末に傾き、
武士の道の見極めが浅く無案内であったために、
山本勘介の身の上のことにまで、悪い評判が及んだのであろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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