大永7年(1527)、毛利元就、31歳の時、
厳島参拝の折に、棚守房顕の屋敷に立ち寄ったが、
そこで初めて、山本勘助に出会った。
元就は勘助の容貌を奇として、どこから来たのかを尋ね、
さらにをの所志を質問し、しばらく考えた後、帰城したが、
5,7日ほど後、使者を遣わして、棚守にこう伝えた。
『先日一見した所の京都牢人(勘助)は、早くこの地から去らせるのだ。
そして日本国中を遍歴させるべし。』
棚守はこの意を受けて、勘助に他所の土地へ興味を向けようと考え、
関東の諸将の威烈を語った。
山本勘助は、これを聞くやいなや、棚守に暇を告げて立ち出ようとした。
棚守は勘助があまりに早く暇を告げたことを怪しみ、止めてそのわけを聞いた。
勘助、曰く。
「私はこの国に仕官を求めるために来ました。
貴方もまた、私を推挙してくれたではありませんか。
ところが今、関東の諸将の威烈を語られました。
これは貴方の御心が、既に変わったことを表しています!」
「な、何故そう思ったのだ?」
「関東とは”還当”、すなわち”還る当し(かえるべし)”と読めます。
これが私が暇を乞うた理由です。」
棚守は勘助のあまりの明敏さに、感嘆したとの事である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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