朝日丹波(重政)は、もと菅沼に仕えていたが、
秀康卿の家臣となり、その息子・千助は、秀康近習となっていた。
あるとき千助に粗略があったため、
秀康卿は、「汝は用にたつまじき者かな。」と言ってしまった。
千助は、
「殿に、用に立つまじきと言われた以上は、我が運の末である。一日も長らえてはならぬ。」
とたちまち自害してしまった。
それを知った秀康は大いに驚き、
丹波に、「愁嘆の折ではあるが、まかり出よ。」と仰られた。
丹波が御前に罷り出ると、
秀康、
「我が、用に立つまじきと言ったのは、決して武のことではなかったのだが、
千助がそのように受け取ったのも道理である。
我が一言であたら勇士を失った。
汝に対面して罪を謝するに言葉もない。
その方はほかに男子も持たないゆえ、
我が愛子・国松をその方の養子として家を継がせてはくれまいか。」
丹波、
「千助は少年とは言いながら、かりそめの折檻を苦にして自害をした以上、
それは不忠であるため愁嘆の必要もありません。
それなのにこうして御前に出られ、国松君を養子にいただけるとの御言葉、
身に余る幸せにございます。
しかしそれがしは不肖の者なので、おそれながらお断りします。」
と何度も断ったが、秀康卿は承知しなかったため、ついに父子の契約をなしたそうだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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