慶長十二年(1607年)閏四月八日、
中納言秀康卿、越前北の庄城において御逝去なり。(三十四歳)
御家人・永見右衛門、土屋左馬介などが殉死した。
秀康卿は御病中に、お佐の局という内府公がかねてから御存知の女中を駿河に遣わして、
「私は病気を今までしたことがありませんので、
この度の病で快復できるかは予測できません。
生きているうちに、この旨を申し上げたく局を差し上らせます。」
と駿河城で口上させた。
家康公、
「我に子供は多いが、秀康は惣領であり、
たびたび我の用にも立っていたのに、越前一国のみ与え置いたのは、今思うと心外であった。
このたび病気快気の祝儀として二十五万石加増して百万石にしよう。
その方は急いで帰り、この趣きを申し上げよ。」
と仰られた。
またお手ずから近江下野の内の二十五万石加増の書付けを、佐の局にお渡しになられた。
局もよろこび急いで帰っている途中、岡崎の宿で秀康卿御逝去の報が届いた。
そのため駿河にとってかえして直ちにお城に馳せ上った。
大御所が囲碁を遊ばされていたところに局は参り、
「中納言様、御養生かなわず御逝去なり。」
と申し上げたところ、
大御所は大いに驚きなさって、浅からぬ御愁傷のさまであった。
局は御加増の書付を懐中から取り出し、
「大切の御書付けなので差しあげます。」
と申したところ、
大御所は、
「女性の身で、よく気のつくことだ。」
と仰られたそうだ。
このことを、越前の御家人どもが伝え聞いて、
「余計な気の立てようだ。」
と局をけなしあったという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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